忘れちゃいけない(前編)

作:夏目彩香(2014年3月11日初公開)


 

3月11日、体育館には日の丸が掲げられていた。派手やかな姿の母親たちがやって来ると、その会話が天井から降り注いで来るように思えた。奇しくもあの日にまた卒業式が行われようとしているのだ。2011年3月11日午後2時46分。あれから3年という時が過ぎようとしていた。僕の人生を全く新しいものに変えてしまったあの日のことは忘れちゃいけなかった。



あの日も今日のように中学校で卒業式が行われた。式が終わると僕は母さんと一緒に家に帰った。二人でお昼ご飯を食べた後、妹が小学校から帰って来たかと思うとすぐに友だちの家に行くと言って出て行った。今まで体験したことが無いほどの揺れがあったのは、それから数分後の出来事だった。

揺れが発生する時にリビングにいた僕は、僕の頭の上から本でいっぱいになっていた本棚が、まるでモンスターのように襲って来たのに気づかなかった。本棚がぶつかってきた衝撃により意識を失った僕は家の中で一時行方不明になってしまったのだ。



目線を日の丸からしたの方に移動させると、そこには校長先生が立って何かを語っていた。長い付き合いだったこの時間ともようやくお別れできるかと思うと、なんとなくすっきりとした気持ちになるが、ある意味さみしくもあった。話の内容はやっぱり3年前のことを思い出しながら話しているようだ。

3年前はこの学校で入学式があるはずだったが、震災後の影響で入学式を行うことはできなかったのだ。それだけではない、失ってしまった制服を準備することもできずに数ヶ月待たされた人もいるくらいだった。それよりも家の中で行方不明となっていた僕が意識を取り戻した時のことを鮮明に覚えている。

気がつくと校長先生の話が終わり卒業証書の授与式が始まっていた。順番的にはまだ先の方なので校長先生から一人ずつ渡して行く姿を眺めていた。男子は今となっては珍しい黒の詰襟タイプの制服に身を包んでいた。入学した頃には制服の方が大きかったものの、卒業式となると制服の方が小さすぎて腕が見える男子が多かった。女子はベージュのセーラー服、襟には細い二本線が描かれており、背中には右と左にイカリのマークが描かれている。スカーフの色が学年によって分かれており、卒業生はロイヤルブルーだった。

そうこうしているうちに前に座っているクラスメートが立ち上がり、いよいよ僕もその子の後に続くように立ち上がっていた。たくさんの人がいるので、僕の姿も目立っているに違いないと思うと急に緊張して来た。担任の先生から名前を呼ばれると中央に立っている校長先生の前に出なくてはならないのだ。

「村瀬克彦(むらせかつひこ)!」

名前が呼ばれるのを待っているうちに3年前の記憶が蘇って来て、そう呼ばれたことを思い出した。なんだか懐かしいこの瞬間を待っていた。

「村瀬…」

担任の先生が僕の苗字まで言いかけたかと思うやクシャミをして中断してしまった。

「エヘン……失礼しました。村瀬彩音(あやね)!」

「はい!」

今の名前で呼ばれた僕は大きな声で返事をすると、校長先生の前に立ち卒業証書を丁寧に受け取った。受けとる時に校長先生は小声で「長かったよね。卒業おめでとう」と言われた。自分の席に戻りプリーツスカートを手で広げてから座っていた。こんな風に座るのも実はすっかり慣れてしまっていたのだ。



震災の後に僕が意識を取り戻したのは、意識を失ってからそれほど長い時間が経っていなかった。いや、僕は本棚の下敷きになった瞬間に死を覚悟していたが思ったよりもすぐに意識が戻って来たのだ。しかし、意識がはっきりとして来た時は水の中にいて身動きが取れない状態になっていた。そう、津波の中に飲み込まれいたのだ。水の中で自由に身動きすることはできなかったものの、なんとか掴まる物を見つけると水面に頭を突き出し、ようやく息を吸うことができるようになった。

本当は陸地なはずなのに辺り一面は水で埋め尽くされていた。その光景を目の当たりにしながら、顔に何かがまとわりついていることに気づいた。自由になっている片手を水の上に持って来て、顔のラインをなぞってみると長い髪が顔にくっついていたのだ。しばらく意識をなくしてから水の中にいるため身体の感覚がまだ完全に戻って来ないものの、何かが明らからにおかしかった。自分の手を見てみると僕の手は手のひらが小さく指は長細く変わっていた。小高い丘がある辺りまで流されると水の中からようやく出て来ることができたが、その時になって僕に大きな異変が起きたことがわかったのだ。

陸地の上に上陸すると身につけているものが、水分を含んで体にまとわりついて来た。自分の体を見回してみるとそれは自分の服では無かった。この服を見た瞬間、何が起こったのかを理解した。この服は僕の妹の彩音の物だった。長い髪は僕の頭から伸びており、背も低くなっていた。津波に巻き込まれた影響で裸足で靴は脱げてしまっていた。地震が発生した直後に本棚が倒れて意識を失った瞬間に、妹の彩音のことが心配だった。どこへ行ってしまったのだろう、地震の被害に遭っていないだろうかと意識を失いつつ思っていたのだ。どうやら、僕は自分の肉体から妹の肉体に意識を飛ばされてしまったようだ。なんとか陸地に辿りついたものの、自分の妹の姿となってしまっていたのだ。



昔の記憶から解放されると、卒業式はいまだに続いていた。出席している卒業生はすべて卒業証書を受け取り終わっていた。僕ももらった卒業証書を広げて目を落としてみた。村瀬克彦では無く、村瀬彩音という文字が書かれている卒業証書も受け取ることになるとは思ってもいなかった。実は村瀬克彦は中学校の卒業証書を受けっとった日が人生の最後の日となったのだ。そして、その日は村瀬彩音として人生を引き継いだ最初の日でもあった。村瀬克彦の遺体は震災から3日後の3月14日に見つかったのだ。避難場所で自分の遺体と対面することになるは思いもしなかったし、妹として自分に対面しなくてはならなかったので、さらに辛かった。僕の家族は同じ日に父さんも亡くしてしまったので、母さんと妹になってしまった僕の2人だけがこの地に残されたのだ。

そんな母さんもこの卒業式に出席していた。稼ぎ頭だった父さんが亡くなったため震災後から仕事を始めたが、母さんは意外にも父さんが勤めていた会社にスカウトされて入社したため、生活に不自由することは無かった。卒業式のためにできるだけ派手やかな服装にしたいとは言っていたものの、最愛の人と最愛の息子の命日でもあるということで、シンプルな黒のワンピースに身を包み、左胸に父さんからプレゼントされたというブローチを付けていた。母さんが座っている席とは少し離れているものの、母さんの化粧の匂いが漂って来ることを感じていた。

卒業式が終わると最後のホームルームの時間となった。担任の先生とも妹のクラスメートともお別れで、これから僕は女子高に進んで女として磨きをかけることにしていた。母さんと一緒に校門で記念撮影をしてから2人で自宅までの道を歩いていた。いつも仕事に出てしまうので平日の昼間にこうやって並んで歩くのは久しぶりのことに思えた。

「彩音ちゃん、卒業おめでとう」

距離を置けばただの母と娘の会話に見えるだろうが、実際には複雑な関係と言った方がいいだろう。死んだはずの兄が妹として生きているのだから無理もない。今となっては3年前にあった出来事は不幸なこととは思っていなかった。妹の命をこうやって引き継いだこと、それだけでも感謝すべきことだと思ったのだ。母さんも思春期が始まったばかりの頃に衝撃的な出来事が起こったので、妹の変化をあまり感じなかったのだろう。僕も妹として中学校に入学したので、小学校の頃に一番親しかった友だちを除いては僕のことを怪しく思う人はいなかった。

「ありがとう。お母さん」

母さんの暖かい手を握りながらそう言うと、僕の目から一筋の涙がこぼれていた。さりげなく手で拭き取ろうとしたが、母さんはその涙に気づいたらしい。


「ねぇ、もしかして克彦のことを思い出したのかしら?今日はあの子の命日だから無理もないけどね」

そう言われた僕は自然なタイミングで次の一言が口から出ていた。

「お母さんは寂しくないの?」

客観的に考えてみると僕に起きた出来事は全てが悲劇と言えるものだ。しかし、僕の中ではそのような感情は起こらなかった。目の前に起きた出来事と自分の身に起こった出来事をそのまま受け入れること、それが僕にとっての最善の策だったからだ。もちろん、男性として15年以上もの時間を過ごしていたので、女性として振る舞うにはまだまだ時間が必要だった。妹の体に僕の意識が入ってしまったものの妹独自の記憶を引き出すことはできなかった。ただ、日常の生活に必要な基本的なことは体が覚えているのか、自然にこなすことができたのだ。考えてみると母さんも同じ境遇だった。愛する人を失ったことによるショックは母さんの方がもっと大きいはず、そう思った瞬間に出て来たのがさっきの一言だった。黒いハイヒールが地面を蹴る音が止んだかと思うと、その場に立ち止まり僕にしっかりと向き合った。

「彩音ちゃん。母さんが寂しくないって言ったら、それは嘘になるわよ。でもね、寂しくなったからって父さんも克彦も戻ってくるわけでは無いの、私たちは現実に向き合って行かなければならないじゃない、いつまでも寂しいだけでいたら残された私たちがここで生きて行けなくなるわよ」

震災直後、母さんと一緒にたくさん話をして来たように思うが、こんな風に話をするのは初めてのことだと思う。きっと母さんの中でも様々な考えや葛藤があったに違いないのだ。



妹の彩音のびしょ濡れの体で、なんとか自宅のあった場所まで行ってみたのだが、自宅付近には津波が襲って来てはいなかった。建物は地震の被害を免れたものの、家財道具が乱雑に積み重ねられていた様子を今でも鮮明に覚えている。そして、家の前には途方に暮れていた母さんの姿があった。母さんは地震が発生した時には家の外に出ていたので無事だったが、家の中では僕が被害にあっていたのだ。家財道具を取り除けようにも自分の力ではどうすることもできなかったため、家の外にずっといたと言うが、ぐちゃぐちゃになった家の中から最低限のものを集めて避難場所へ移動するしかなかった。この時になってびしょ濡れになった服を着替えたのだが、妹の部屋にあるクローゼットから着替えを取り出したのだ。リビングにいるはずの自分の体を救出することができずに、僕は母さんと一緒に避難場所へと駆け込んだ。

「彩音ちゃん、無事だったのね」

避難場所へ行くと妹の親友である川崎沙織(かわさきさおり)が飛びついて来た。本当は学校が終わってからまた会う約束をしていたのだが、一緒に遊んでいる時に津波に襲われたと言うのだ。津波に襲われながらお兄ちゃんの名前を叫んでいたと言うが、津波の中に飛び込むこともできなかったので心配していたと言った。妹の友だちとして沙織のことは知っていたが、彩音とは知っている程度が違い過ぎる。この時は沙織と一緒に避難生活を続けるのが非常に大変なことだと思っていたのだが、後で考えてみればこの時間によって僕は沙織から彩音のことをたくさん教えてもらったのだ。3年が過ぎた今では僕らはさらに仲が良くなっていた。来月からは沙織と一緒に同じ制服を着ることも決まっていた。これからも大親友として二人の関係が続いて行くと思う。彩音から引き継いだ大切な宝物だけに、いつも沙織の真似ばかりしていたように思う。



母さんのハイヒールの音が再びコツコツと鳴り始めていた。僕もその足音に揃えるように一緒に歩み始めていた。母さんの短い一言を聞き一緒に歩きながら僕はあの日の出来事を考えていた。途方に暮れていた母さんの姿は忘れられない、今はとっても優しく力強い父親のような側面も持っているが、震災が発生するまではこんなに優しく接してくれなかった。会社で仕事をしていた父さんは家にいることが少なかったが、家にいる時はとっても優しく接してくれた。子育てのために時間を割くことができないので、僕らにいつも悪いって言ってたくらいだ。震災を経て母子家庭となった僕らの家庭を支えるため母さんは父親的な側面も持つようになったから、父親のような面が出て来たのかも知れない。家に帰ったら母さんと久しぶりに二人きりの時間を過ごせそうだ。そんなことを思いながら僕はまた村瀬彩音としての新しい一歩を踏み出していた。



自宅に戻ると母さんは黒い余所行きのワンピースから、会社に行く時にたまに着ているツーピースを身にまとっていた。どうやらこれから出勤するようだ。母さんとゆっくりした時間ができると思ったののも、会社の大事なキーパーソンとして一気に取締役まで抜擢されてしまったのだから無理もない。母さんが20歳の時に僕が、23歳の時に彩音が生まれたからまだ30代だった。3年もしないうちのスピード出世にびっくりだが、家にいると色々なことを思い出してしまうと言って、僕がこの家を一人で守って来たようなものだった。卒業式の今日くらいは一日中ゆっくりとして欲しかったのに、出かける準備のため化粧を直していた。

「お母さん、これから会社に行くの?」

そんな母さんに僕は声をかけてみた。僕はまだ制服姿のままだったこの制服はこれから着ることが無くなるのだ。まだ着ていたいと思った。そんな僕に母さんが化粧台の鏡を通して僕を見ながら口を開いた。

「今日は会社に出社しなくてもいい日よ。でも、あの人と克彦の命日じゃない母さんにとっては愛する二人を失った日よね。このツーピースはあの人からの贈り物なのよ。これに身を包んで会社に行く時と同じメイクで過ごしたいの」

そう言いながら母さんは一筋の涙を見せていた。

「お母さん、泣くとせっかくのメイクが崩れちゃうよ」

「あら、そうよね。でも、なんか今の私は泣きたい気分なの」

「どうして?」

「それは今すぐは言えないわ。彩音ちゃん。母さんを一人にしてくれないかしら?」

「わかった」

「今晩は彩音ちゃんの食べたいものを食べに行こうと思うから、夕方まで自由にしていていいわよ」


母さんの部屋から自分の部屋に戻ると、ベッドの上に座り印象的なさっきの母さんの涙のことを考えていた。あれは、震災発生後に自宅の前で再会した時に見た涙と重なって見えたからだ。きっと、母さんにとってはわすれられないこの日、自分の娘にも話すことのできないことがいっぱいあるのだろう。僕は自分の部屋に飾ってある家族4人で写っている写真を手に取って眺めていた。そこには父さんと母さんと一緒に克彦と彩音の姿が写っていた。そして、その隣にある母さんと彩音が2人きりと写っている写真に目をやった。こっちは震災が起こってからの写真だった。この時の彩音の表情は隣にある克彦の表情と全く同じだった。克彦としての人生が彩音としての人生に引き継いでいる僕だけが知っている証拠写真だった。母さんにもきっと僕にも言うことのできない秘密があるに違いないと思った。



いつのまにか制服姿のままベッドの上に倒れるかのように僕は眠っていた。スマホの着信音で目を覚ますとさっそく画面をチェックした。沙織からのメッセが入っていたので、すぐに開いてみるとさっき校門の前で一緒に撮った写真が送られて来た。まだゆっくりと時間は取れないけどとりあえす写真を送ってくれたようだ。沙織も今日は家族で一緒に過ごしているはず。いつもだとたくさんのメッセをやり取りしているが、沙織の方が圧倒的送ってくる数が多かった。彩音として中学校に入学した時に携帯を持つようになったが、最近になってスマホに変えることができた。僕の持っているスマホはもちろん背中にリンゴマークのついていた。時間を確認すると母さんと一緒に食事に行く時間が近づいていた。僕は制服からお気に入りの水色のワンピースに着替え、自分の部屋を出てリビングで母さんを待つことにした。

母さんが自分の部屋で籠りっきりになるのは珍しいことだった。一人になるにしてもリビンングでゆったりと過ごすのが好きなのに、やっぱりこの日になると色々と思い出してしまうことがあるのかも知れないと思った。僕はリビンングのソファに座りながら一人で母さんがやって来るのを待っていた。そして、ショルダーバッグからスマホを取り出して沙織から送ってもらった写真を眺めていたのだ。校門に立てかけられている卒業式の看板の前には制服姿で彩音と沙織が笑顔で立っていた。この彩音こそ僕の今の姿なのだが、この笑顔を作れるようになるまで3年もの月日を要したのだ。来月入学する予定の高校ではすでに買ってあるブレザーに身を包むことになるのだ、すっかり慣れたセーラー服ともお別れしてしまうのはなんだか寂しくもあった。やっぱり僕の根は男がまだ残っているのだ。セーラー服に対する憧れが強かったものの、自分がそのセーラー服まで袖を通してしまうとは思いもよらなかった。

避難所から自宅に戻ったのは震災が発生してから一ヶ月後のことだった。中学校の入学式は二週間遅くなったものの、彩音が試着して買った制服もなんとか無事だったので制服で入学式に臨むことができたものの、クラスメートの中には制服が準備できず私服姿で来る人たちも何人かいたのだ。入学式の時も今日のように母さんは出席したものの、式が終わるとすぐに仕事に出かけてしまった。父さんを失ってすぐに仕事ができるようになったのにはありがたかったが、これほどまで早くに働きに出るとは思ってもいなかった。だからこそ、今日は一緒に食事をすることができるだけで嬉しかった。そして、いつの間にか母さんは自分の願う理想の女性と思うようになっていた。大人になったら母さんのようにキャリアウーマンとして活躍してみたいと思うようになって来たのだ。そのためにも女性としての磨きをかけたいと思って、沙織と同じ女子高に入学することを決めたのだ。これからは寮生活となり故郷を離れることになる。母さんともお別れしなくてはならないが、どっちみちいつまでもそばにいるわけでも無いのでちょうど良かった。東京の女子高に進学することになっているのだ。沙織と一緒にわざわざ規律の厳しい学校を選び、一緒に通うことができるようになった。寮生活では二人部屋となることも決まっていた。


リビンングのドアが開くとさっきと同じツーピースに身を包んだ母さんが現れた。窓の外はすっかりと暗くなっている。僕のお腹が鳴るとさっきまでの神妙な顔とは違い母さんは笑顔を見せてくれた。

「彩音。そろそろ行きましょうね!」

玄関に向かうと真ん中に目新しいヒールのある水色のパンプスが置かれていた。

「お母さん?これって?」

「母さんから彩音にプレゼントよ。この前、あなたと一緒にお店の前を通った時にステキだって教えてくれたじゃない。あなたにぴったりな大きさがあったので買って置いたのよ」

母さんはまだまだ30代、僕と一緒に並んでいても母親とは見られないくらいに若いのに仕事にばかり夢中だと思っていた。その母さんから自分のために靴を買ってもらったことがとても嬉しかった。ゆっくりとまずは自分の左足をパンプスの中に入れてみた。

「あっ。本当にぴったりな大きさ」

続いて右足もパンプスの中に入り込むと、そこにはいつもとは違う視界が広がっていた。つま先が低くて踵が高いのでなんだか少しだけ背伸びをしている感じ、玄関にある姿見を見ると、そのパンプスはまるでワンピースと揃えたかのように同じ色だった。彩音の好きな色が水色だった。僕もピンクよりは水色の方が抵抗なく受け入れることができたので、彩音になってからは身につけるものは比較的水色が多かった。

「やっぱり、彩音ちゃんが一番かわいいわね」

母さんはお世辞ではなく本心からその言葉を言ってくれた。僕にとってはその褒め言葉こそが何よりものプレゼントだった。克彦として中学を卒業した時にも母さんは何かプレゼントを用意していてくれたのだろうか?今となっては何もわからない、震災の瞬間に自宅にいた僕は重たい本棚のしたじきになってしまい、母さんは外にいて助かったのだ。会社へ移動中だった父さんは津波に飲み込まれてしまい帰らぬ人となっていた。

みんな、これまで生きるのに精一杯だったんだと思う、人はそれぞれの思いを持って今日も生きているのだ。僕の家族でこの地上に残されたのは母さんと僕の二人だけだった。さらに、僕は妹の彩音としての人生を自然と引き継ぐことになってしまった。妹を助けたいという思いと、お兄ちゃんを呼び求めた妹の思いが重なった時に、意識が抜けてしまった妹の体に僕の意識が入って、妹の肉体を助けることができたのだ。きっと、あの出来事が無ければ母さん一人だけがこの地に残されたことだろう。そんなことを思うと彩音としての残りの人生は大切なプレゼントのように思う。

「彩音ちゃん。何が食べたいかしら?」

姿見の前で自分の姿にみとれているうちにいつの間にか、別のことを考えてしまっていた。気がつくと母さんは今まで見たこともない高さのピンヒールをシューズクローゼットから取り出していた。艶のある赤いピンヒールの上に乗った母さんは年齢よりもずっと若く見えた。二人で揃って姿見を覗いてみると、ちょっと年の離れたお姉ちゃんと言った方がいいくらいだった。

「今日のお母さん、一段と若々しくなったね。今日だけお姉ちゃんって呼んでいいかな?」

思わずそんなことを口走ってしまった。いつもは彩音だったらどう言うんだろうと考えてから言葉を出すものの、この時は自然とそんな言葉が出て来た。

「いいわよ!」

間髪入れることなく母さんはすぐに返事を切り返してくれた。母さんとの久しぶりのデートは一体どんなことになるのだろう。そんなことを考えながら、僕は新しく買ってもらったパンプスで地面を叩くように歩き出していた。


(つづく)





【作者からのひとこと】

こんにちは、夏目彩香です。しばらくこの名前で作品を書くことをやめていましたが、この場をお借りして久しぶりに新しい作品を執筆公開することにしました。一話完結の短編として公開を考えていたのですが、話がまだまだ長くなりますので、途中で一度区切ることにしました。この続きのお話が完成しましたら、また公開したいと思いますので、よろしくお願いいたします。





 

本作品の著作権等について

・本作品はフィクションであり、登場人物・団体名等はすべて架空のものです。
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