銀杏並木の感触

作:夏目彩香(2005年10月21日初公開)


 


積もる落ち葉の上を歩く感触は、いつもと違っていた。

どんよりとした秋空が女心と似ているとはよく言ったものだが、僕にとってはそんなことはどうでもよかった。いつものように大学のキャンパスの中を一人寂しく歩いている僕には、彼女と呼べるものが今はいない。

うちの学校のキャンパスにはりっぱな銀杏並木があるというのに、ここを一人で歩くたびに虚しく感じていたのも事実だ。ここの銀杏並木は道路が舗装されているわけでも無いが、隣の校舎へと向かう時には近道になるからと自然発生的にできた道らしい。もちろん土の道だ。

秋になってずいぶんと服装も変わってきた。夏までの僕だとTシャツにジーパン、スニーカーの毎日だったが、今ではその上に軽く秋用のジャケットを身に纏うようにしていた。日中はジャケットを脱ぐこともあるが、夜になると冷え込むのでやはりジャケットが欠かせない季節になった。

そんな、いつもの銀杏並木を歩いていると、一人の女性が道の途中で腰を屈めているのが見えた。その女性は白くほっそりとした手を伸ばしていた。その先にいたのは一匹の野良猫で、銀杏並木でよく見かけるいつもの猫だった。

もちろん僕もその猫のことは知っていたが、それ以上に野良猫に手を伸ばして微笑んでいた女性の横顔が忘れられなくなっていた。次の授業があるためにゆっくりした気持ちを抑えながら隣の校舎へ僕は入っていった。

授業が終わり家に帰ってからも今日みた女性のことが頭の中から消え去ることはなかった。机の前で座りながらゆっくりと今日の出来事を思い出して見た。明日の授業の予習なんかは当然のことながらそっちのけだった。銀杏並木によくいる野良猫の目の前に腰を屈めている姿、膝を抱えている女性の姿が思い浮かばれた。

茶色いタイトスカートの裾から膝が見えていた。上には白のカーディガンを羽織っていた。セミロングの髪はちょっとだけ赤みがかって、足下のヒールの高いブーツまではっきりと頭の中に焼き付いていた。どうみてもあの落ち着いた雰囲気から思うに、僕よりも年上のお姉さんだった。

足の太ももと胸の間にノートを挟めていたので、どうやら同じ学校の生徒?もしくは先生?もしかすると職員?なのかも知れない、僕の中にはそんな程度の想像しかできていなかった。また会うこともあるだろう。そんな風に考えることで今日のところはの授業の予習もせずに机の上でそのまま眠りについたのだった。

目を覚ますと時計の針を見るや驚いた。既に授業が始まる30分前になっていたのだ。今日の授業は遅刻には厳しい先生なので、絶対に遅刻することができなかった。遅刻や欠席をしただけで単位を取るのに不利になると言われている授業だけに、ここはなんとしてもすぐに準備をして行くべきだった。昨日の夜に猫の前で微笑んでいたお姉さんのことを考えすぎた罰なのか、机の上でよくもこんなにも眠れたものだと自分でも感心してしまった。

とにかく僕はいつも以上に急いで準備をして、学校に向かった。教室に到着するまで、どうやってここまで来たのかわからない程に無我夢中の状態だった。教室に着くや否やジャケットを脱ぎ捨て、体から出る汗を乾かしながら授業を受けていた。授業の内容はおもしろい物では無いので、先生の目を盗んでは窓の外を時々眺めていた。実は、この教室の外にはちょうどあの銀杏並木が見えた。

僕は銀杏並木を眺めながら、昨日の出来事をそこに重ねて見ていた。お姉さんが腰を屈めて野良猫に手をやる姿は、想像するだけでも微笑ましい姿だったと思う。この学校に通い始めて3年の秋になると言うのに、そのお姉さんを見かけたのは初めてのことだった。

キャンパスは一般の人にも解放されているからただの通りすがりの女性だったのかもと考えたが、僕の中ではその結論を出すのは寂しかった。胸の中で何かがキュッと引き締められた思い。そう、名前すら知らないあのお姉さんにどうやら恋をしているようだった。おかげで今日の授業の内容は全くと言っていいほど覚えられそうになかった。

授業が終わると今日はやることも無く、家に帰ろうとしたが、なんとなく気になって銀杏並木の下を歩くことにした。昨日よりも落ち葉が積もっているように感じる。スニーカーの下にある落ち葉の感触がなんだか僕の心を安心させてくれた。そんな道の途中、昨日と同じ場所に同じ野良猫がいた。

思わず、僕はお姉さんがやっていたように、腰を屈めると野良猫に手を伸ばして顔や喉のあたりを触りはじめた。こうすると昨日のお姉さんがどうしてこんなことをしていたのか、わかるような気がした。僕はそんな野良猫を見つめながら、昨日のお姉さんの名前をこの猫から聞き出したいくらいだった。目の前でお姉さんと会った猫のことだ。名前ぐらいは知ってるのかも知れないなんて安易な考えをしてしまったのだ。

野良猫と10分ぐらいじゃれ合っていたが、周囲の目に押されて家に帰ることにした。ここにいれば昨日のお姉さんに会えるという確信はまだ無かったが、少なくともあのお姉さんは猫が好きだということが、僕にとって唯一知っていることだった。名前すら知らないお姉さんに恋をするというのは、ちょっと考えてみるとおかしなことなのかも知れない、そう思うようにもなっていた。

あれから1週間、僕は学校に行くたびにあのお姉さんに会えるのじゃないかというほのかな期待を胸にして通っていたが、あの日以来会う日はなかった。もちろん、お姉さんは僕のことを知らないはずなので一方的に会うこと、お姉さんを見つけることだけを期待していた。

落ち葉が積もり続ける銀杏並木にまだまだ黄色い葉が残る中で、僕はしばらくお姉さんのことを忘れよう、いや、忘れるまえとは行かないけれど、とりあえず期待しないでおこうと考えるようになった。そんな僕を慰めてくれたのはあの野良猫だけだった。

週末の土曜日、僕は朝から軽く散歩に出かけた。起きたばかりの僕は家から一番近いコンビニに立ち寄ると、棚からいつものように食料を調達し始めていた。支払いはいつもの通り学生証に付いている電子マネー機能を使うことにしている。うちの学校では学生証がICカードになっているので、何かとカードを利用することが多い、もちろん出欠もこれでやっている。

そんなことはさておき、いつものように決済の「シャリーン」という音が鳴った。初めて使った時には慣れていなかったが今ではすっかり慣れてしまった。学生証をポケットの中に入れながら、隣のレジに目をやると僕の胸が急にキュンと縮まった。そこにいたのは、あのお姉さんの姿だったから。朝早いにも関わらず、お姉さんはこれから通勤するようなきちんとした格好をしていた。僕のほとんど部屋着状態とは全くもって違っていた。

お姉さんは僕のことを知らないわけだから、こんなところで話かけることもできない、僕はとにかくできるだけ自然にコンビニを出なければならなかった。コンビニを出ると中から「シャリーン」と音がしていた。レジをよく見ると僕と同じようなカードを使って決済をしていた。どうやら僕と共通点があるらしいことがそこでわかった。

偶然に会った瞬間から、僕はお姉さんのことを忘れようとしていた自分をすっかり忘れてしまっていた。コンビニの入口でどうしたらいいのか考え始めていたが、お姉さんはレジを離れて入口に近づいていた。どうしたらいいのかわからなくなって、僕はその場を動けないでいた。金縛りにかかったみたいな気分だった。

自動ドアが開いてお姉さんが出てくると、僕は手に持っていた学生証を思わず落としてしまった。僕が学生証を拾おうとして手を伸ばすと、それより早くお姉さんの手が僕の学生証に届いた。そう、僕の学生証はお姉さんの手で拾われたのだ。そのことを考えるだけで思わず顔が赤くなってしまい、緊張感がピークに達してしまった。

「はい、これ」

僕がお姉さんから初めて言葉を聞いた。学生証を受け取る時に、お姉さんの指にちょっとだけ触れたが、僕よりも冷たい肌触りだった。

「ありがとうございます」

なんとか御礼の言葉を言うことはできた。しかし、お姉さんと話す勇気も沸かない僕はとにかく家に帰ろうと思った。残念だけどその場から立ち去ろうとしたその時、思ってもいなかったことが起こった。

「深沢くん?」

お姉さんが僕の名前を呼んだ。僕はコンビニのゴミ箱の前まで来たところで、振り返りお姉さんの方を向いた。

「どうして僕の名前を?」

「だって、学生証に書いてあったじゃない」

お姉さんは口元を緩めると優しそうに僕を見つめて笑っていた。その笑顔を見た途端に僕は自分の意識がどこかに行ってしまいそうだった。

白い膝丈のスカートはわざと裏地が透けて見えるタイプで、ピンクのパンプスとよく似合っている。スカイブルーのブラウスの間にちらっと見える胸元には十字架の形をした銀のネックレスが揺れていた。白のジャケットを羽織って肩からはどこかブランドもののショルダーバックをぶらさげていた。これにあの笑顔で攻撃されてしまっては僕の心はすぐにやられてしまった。

コンビニの袋を左手で持ちながら、間を置いてお姉さんは僕に話しかけて来た。

「それに、銀杏並木にいつもいるのってあなたでしょう。学校のキャンパスでよく見かけていたから、思わず声かけちゃった」

同年代の女の子とは違って落ち着いたアルトがとても心地よかった。よく見られていた。それってもしかして気にしてくれたってことだろうか。僕の心の中では瞬間的にあらゆる気持ちが錯綜する。僕はまだ言葉を出すことができないでいた。喉に何かがつかえていて何を言ったらいいのかわからなかったからだ。

「実は、あなたのことはよく見かけていたから、こんな時だから思い切って話でもしてみたいなって思ってるんだけど、朝から忙しくてこれから仕事があるのよね。なのであとで会えないかしら?」

急にそんなことを言われても、頭の中で考えがまとまらない僕だったが、もちろん首を縦に振り後でお姉さんと会うことにした。だが、これが僕の運命を変えるとはこの時はまだわからなかった。

僕はコンビニの前でお姉さんと別れて家に戻ると、さっそく自分の携帯を開いていた。携帯の中に新しく登録された電話番号、まぎれも無くあのお姉さんのものだった。名前に入力されている相沢美里(あいざわみさと)という文字が並んでいるだけでなく、横にはお姉さんの笑顔で写っている写真があった。まるでお姉さん、いや美里さんが僕のことを見守ってくれるような気分だ。



朝から忙しいということなので、夕方過ぎに電話が来てそれからまた会うことになっている。美里さんとすぐに会えるようになるなんてことは今朝まで夢にも思っていなかった。まだ、今日も始まったばかりだったが、夕方までゆっくりと準備をしておこうという気になる。週末の過ごし方が一気に変わってしまった。

僕は夕方の再会も待ちきれずに美里さんに連絡をしたかった。しかし、メールアドレスの欄はまだ空白のため、こっちから連絡をするには電話をかけることしか出来ない。朝から忙しそうにしていたので、時々かけて見たが電話がなかなかつながらないので、さすがにかけ直すことができなくなってしまった。結局、夕方に電話をすると言った美里さんのことを信じて待つことにした。

夕日もすっかり沈みきって部屋の電気をつけないでいると真っ暗になっていた。待ちくたびれて部屋の電気をつけるのも忘れていたが、着メロが流れると僕は急いで光り続ける物体へと手を伸ばした。電話の向こうからは落ち着いた女性の声が聞こえて来る。それは間違いなく美里さんのものだった。

電話を切るとすぐに準備を済ませ、家の外へ飛び出した。学校の正門で今から会うことになったので、早く着けばそれだけ早く会えるかと思って僕は学校へと急いだ。普段はこんなに走ることも無いのに、正門に到着した時は汗でびっしょりになっていた。

正門に到着するや辺りを見回したが、美里さんらしき人影は見あたらなかった。そもそも授業がほとんど無い土曜日だったから人がここにいることの方が珍しい、美里さんが待っていればすぐに見つかるはずだった。風の冷たさが僕を襲って来る。美里さんを待つということが無ければ、僕は確実に嫌気をさしてここから逃げ出しているに違いなかった。

そういえば、美里さんはさっき電話で「ちょっと遅れるかも知れない」って言っていたのをここで思い出した。僕は美里さんに会える一心でここに急いで来たのに、もっとゆっくりでもよかったようだ。とにかく、僕は自分の熱くなった気持ちを抑えてくれる秋風に感謝をしながら、ここで辛抱強く美里さんを待つことにした。

正門にやって来て10分が経過した。さすがの僕も美里さんに電話をかけることにした。家にいたときには勇気を振り絞ってようやく電話をかけたのだったが、今はすんなりとかけることができた。電話の向こうからはいつもの音では無くメロディが流れて来ている最近は電話を待つ音にも個性を出すことができるらしい、美里さんが出るのを待ちながら僕はそんなことを考えていた。

美里さんが電話に出るのを待っていると同時に学校の中から正門の方へとヒールの音が聞こえて来た。僕が音のする方に目を向けると、音のピッチが更にあがって正門の前で音が止まった。そう、それは美里さんの姿だった。右手に持った携帯を開いてすぐに閉じると申し訳なさそうな顔をして僕に謝ってくる。

「ごめんなさいね。すぐそこまで来ていたから、携帯に出るよりも急いで来ようと思って」

「いいえ。大丈夫です。ちょっと遅れるかも知れないって聞いていたので落ち着いて待っていました。あまり気にしないで欲しいです」

美里さんを待ちきれなかった思いとは裏腹に、僕は平然と美里さんに言葉をかけた。

「そう。それならよかった。お腹空いてない?」

「空いてます。どこか食べに行きましょうか?」

「今日は私の奢りなんだから、私が誘わないとかっこ悪いじゃない」

そうして、僕は美里さんと正門の前を離れ、食事をしに向かっていた。

ということで、僕は美里さんと一緒に初めて食事をすることになった。大学前には色々なお店があるが、普段はあまり入ることの無い僕だけに、どこの店へ行けばいいのか全然わからないでいた。家の近所と言えば聞こえはいいかも知れないが、こういう場所が好きでは無い僕だけに初めての体験だった。

美里さんは僕の横、微妙な距離を置いたところを歩いている。白い膝丈のスカートとピンクのパンプスが行ったり来たりするのを横目で見ながら、美里さんの様子を伺っていた。

美里さんの歩きに付いていくと、いつの間にかある店の前で止まっていた。着いた店はと言えば麻婆豆腐が有名な中華料理の店だった。僕は一瞬、美里さんのチャイナドレス姿を想像してしまった。美里さんは僕を見ると、

「ここでいい?」

とだけ僕に尋ねた。もちろん僕は大丈夫だと言葉を返した。こうして僕と美里さんの初デート?となる食事は麻婆豆腐ということになった。

テーブルの目の前には美里さんが座っていた。注文はすぐに終わって料理を待つ間、どうやって過ごせばいいのか考えていたが、小心者の僕にはとにかく場の雰囲気を和やかにするので精一杯だった。この場の雰囲気を変えるためなのか美里さんが話をはじめた。

「ここの麻婆豆腐、食べたことある?」

「無いです。店に入るのも初めてで、ちょっと値段高そうだし」

「そうそうそう、ちょっと値段は張るけど食べておいた方がいいわよ。私の一押しの店なんだから!」

「学生の僕には縁が無いわけですよね……あの?」

僕はここで美里さんの名前を呼ぼうとしたが、いきなり名前で呼んでしまうのもなんだと思って、どもってしまった。結局出た言葉が「あの?」だった。

「何なの?あっ、私を呼ぶときは美里でいいわよ。嫌だったら美里さんでもお姉さんでも、お嬢さんでも何でも私は構わないから」

さすがの僕も美里さんの口からお嬢さんと出て来たのには参ったが、そう見えなくも無いので、辛うじて笑わずに済んだ。

「じゃ、美里さんって呼ぶことにします」

「わかったわ。じゃあ。私はあなたのことどうやって呼ぼうかしら」

「美里さんから呼ばれるんだったら、何でもいいです」

「そう?じゃあ、深沢駿作(ふかさわしゅんさく)だから、略して深駿ってのはどう?」

美里さんは自分の携帯を見ながら言った。

「えっ?それはちょっと」

「冗談よ。駿って呼ぶことにするわ。一応、私の方がお姉さんですからね」

「友達からもそう呼ばれるし、それでいいです」

「わかったわ、駿。まるで弟ができたみたい」

美里さんはどうやら、オーバーな表現をするのが好きなようだ。そういえば、こんなやりとりをしているうちに僕の方は楽な気持ちで美里さんと話をすることが出来始めていた。

「美里さん。朝会ったときに、僕と話してみたいって思ってたって言ってましたよね」

「言ったわよ。それがどうしたの?」

「それっていつ頃からなのかと思って」

「そう。ちょっと話が長くなりそうだから、まずは先に食べちゃわない」

美里さんがそういうや否や、テーブルの上に料理が載せらはじめていた。

「わかりました。まずは食べましょう」

目の前の料理の誘惑にはさすがの僕も見逃すことができなかった。

食事が終わって僕は美里さんと中国茶を飲み始めていた。お腹がいっぱいになったところでさっきの話の続きをする。

「じゃあ、これから今日の本題といきましょうか」

「はい」

「私が駿と話がしてみたいと思ったのは、銀杏並木の下にいるあなたの姿をよく見かけたからよ。私もあの場所が好きだから、何か縁があるんじゃないかなって思って」

「縁ですか」

「そうよ。縁とか運命とか、人には必ずあるものじゃない。だから、今日こうして私が奢ったのも何かによって動かされたのかも知れないかなって」

「そうなんですか」

「まぁ、仕事でちょっと疲れちゃってるせいもあるのかな。学校で教授付けの秘書やってるんだけど、毎日学校に出ているので、それに合わせて私の方もなかなか休めなくてね」

「そうだったんだ。まぁ、学生にしては年が……」

美里さんは顔を軽く赤くしはじめたので僕はそこまでで話を止めた。

「大丈夫。慣れてるから。学生に見えるっていいたいんでしょ」

「そうです。そうです。学生かと思っていました」

「まぁ、大学院生ならこの年齢でもいるわよね。こう見えても私30よ」

「へぇ。全然見えないです。せいぜい25かと思ってました」

僕の方はお世辞でも無く、本当のことを言ったまでだが美里さんの表情はあまりさえが無かった。

「あなたって可愛いところあるのね。ありがと」

「お世辞じゃなくて本当です。初めて見かけた時からそう思っていました」

「いいわ、ちゃんと覚えとくから」

ここまでしゃべって喉が渇いたのか、美里さんは中国茶の入った茶器を手に取ると、ゆっくりとお茶を口に含んでから話を続けた。

「それで、あなたに話したかった話なんだけど、実はちょっとお願いしたいことがあるの」

「そうですか。なんです?」

「単刀直入な形で言うと、うちの研究室の教授に会ってもらえないかって、ただそれだけなんだけど、そんな気はあるかしら?研究に関わることで協力してもらいたいと思って」

「えっ!?」

美里さんが僕を奢ってくれたことが、実は研究を助けてもらいたいことだとは思ってもいなかった。思わず、驚きの声をあげてしまった。

「深い内容は私も聞いて無くて、うちの学校の銀杏並木に何か関係があるらしいのよね。それで、銀杏並木でよく見かけるあなたを思い出したってわけ。今朝会ったときは、まさに運命かなって思ったのよ。色々と深い意味があるわけじゃないけどね」

「そうだったんですか。まぁ、そんなところでしょうね。僕はまだ研究とは縁が無いので、よくわからないんですけど、研究には多くの労力が必要でしょうから」

「そうそう。どうにか会ってもらえないかな?」

「どうして僕なんですか?」

「私はうちの研究室で何をやっているか深いことは知らないけれど、どうやら人体実験をするみたいよ。今のところリストアップされたのが、あなたと私なの」

美里さんは真剣な眼差しで僕のことを見つめていた。

僕が美里さんに明確な返事をしないまま、中華料理の店を出た。美里さんは研究室に一度戻ってから帰るということで、学校の正門で結局分かれることになり、返事ができるようになったらいつでも携帯に連絡をして欲しいということだった。

家に帰り一人暮らしの虚しい空間で美里さんから頼まれたことを思い出していた。「リストアップされたのが、あなたと私なの」中華料理の店で最後に聞いた言葉が頭の中で響いていた。なぜ美里さんと僕が実験の対象となっているのか、そこが腑に落ちない点ではあった。

ベッドの中で考えているうちに、眠りについてしまった。カーテンとカーテンの隙間からわずかな光が入って、僕の目の辺りに注いでいた。僕は自然に目が覚めていた。昨日の夜には美里さんからの頼み事を拒否する考えしか持っていなかったが、なんだか急にやってみようという気になっていた。

美里さんと僕が実験の対象になっているということは、何か名誉なことでは無いんだろうかと思ったからだ。それに、美里さんにまた会うことができること、美里さんが喜んでくれること、そんなことを考えているうちに協力するべきと思ったのだ。

朝の早い時間にも関わらず、僕は美里さんの携帯に電話をかけた。朝から元気な美里さんの声に驚きながらも、教授に会うことを決意したと伝えた。

できるだけ早いうちに会うのがいいと勧められて、今日これから会えるように準備をするらしい、学校の研究室に直接行けばいいということになった。時間は昼時前の11時ということで、とりあえず僕はもう少し眠りにつくことにした。

もう一度寝てから、目を覚ますとすぐに身支度を調えて学校へと向かった。目指す研究室はただ一つ、銀杏並木の間にはかなりの落ち葉が積もるようになっていた。スニーカーの下からはみしっとした感触が伝わって来ていた。

研究室の前で一呼吸を置いて、ドアをノックしてから研究室に入室した。中で待っていたのは、美里さんと教授の二人だけだった。教授はスーツ姿でスマートなタイプだった。教授という割には見た目は若い、美里さんより少し年上にしか見えない。研究室の中にはたくさんの机があり、机の上は書類がきれいに整理されている。ソファーとテーブルが置いてある部屋で、話は始まった。

「初めまして、私はこういうものです」

教授は僕に名刺を渡してくれた。

「堤直隆(つつみなおたか)、遺伝子カプセル研究室教授?」

「堤です。よろしく。私の研究は遺伝子工学の中でも異端な分野で、いつも馬鹿だと思われていますが、まずは話を聞いて下さい」

「あっ、はい。わかりました」

僕はおとなしく教授の話を聞くことにした。

「私は学生の頃、遺伝子が持つ力に感動して学部を受け直しましてね。以来、今に至るまでずっと遺伝子について研究しています。私のところで、今扱っているテーマが、遺伝子カプセル。完成すればヒトの遺伝子情報をカプセルが読み取って変換をかける。研究を始めたのは、彼女がやって来た頃になるからかれこれ3年くらいになるかな、先月ようやくプロトタイプができて、適切な試験者の選定を行いました。彼女がやることがすでに決まっていたので、彼女のペアになる我が校の男性を探したところ、君がリストに上がったんだ。彼女との相性がかなり高いから、君なら彼女を簡単にやりこなせるはずだと思ってね」

続けて美里さんが話す。

「で、駿にやって欲しいのは、このカプセルを飲んで欲しいだけよ。この中には私の髪の毛が入っていて、カプセルには私の遺伝子情報が蓄えられてるわ。しかもこの髪は12年前のものだから、飲めば12年前の私になるわ」

「二人とも何を言ってるのか、僕にはよくわかりませんが、このカプセルを飲ませようとしています?」

「そうそう。このカプセルには彼女が高校の時にとっておいた髪の毛が入れてあるから、高校時代の彼女に身も心も変化するはず」

「えっ?もしかして僕がそれを飲むと高校時代の彼女になるってことですか?」

「私が大丈夫と言ってるのよ。私にとって思い出深い時期でもあるし、実験中は私の妹ということにするから」

なんだかわからないが、既に嫌とは言えない状況に僕はいた。

「美里さんの高校時代が見てみたいけど、やっぱり実験だし嫌です」

「まぁ、そう来ると思ったよ。この実験が終わったら、彼女は君と付き合うってことで報酬を考えています。まぁ、彼女の一方的な進言ですが……」

その言葉を聞いた美里さんは少し照れていた。それを見た僕はやるしかないと思い、「やります」といつの間にか快く承諾をしていた。







 

本作品の著作権等について

・本作品はフィクションであり、登場人物・団体名等はすべて架空のものです。
・本作品についてのあらゆる著作権は、全て作者の夏目彩香が有するものとします。
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