お姉ちゃんのリップ

作:夏目彩香(2004年3月15日初公開)

 


「幸宏(ゆきひろ)。なんで私の部屋に勝手に入ってるのよ。私の部屋に入る時はちゃんと私に断ってからじゃないと駄目だって、いつも言ってるじゃないの」

ここは幸宏の姉である北条真紀(ほうじょうまき)の部屋。幸宏と真紀は年の差がちょっと離れている姉弟で、お互いの干支が同じだから、ちょうど一回り違いということになる。幸宏は中学生1年で13歳、真紀の年齢は書かずともわかる。幸宏は少しずつ大人に近づいているらしく、最近は性的なものに興味を持っているらしい、姉の部屋に勝手に入り始めたのは、つい1ヶ月前からだった。

1ヶ月前からなぜか、幸宏は真紀の部屋にこっそりと入ることを続けていた。何をしているのか真紀にはわからないが、部屋の中が荒らされていないことを見れば、特に変なことをしているわけでは無い、しかし、年頃の真紀にとっては一大事である。自分の大切にしているものを例え年齢差の離れた弟に見られるということを考えるだけでもゾッとする。そんな気分だろう。

ということで、今日はたまたま幸宏が真紀の部屋に入っている時に、真紀が帰って来てしまった。真紀は会社で総務の仕事をしているから、ほとんど定時になれば帰って来られるという。いつもはどこかに立ち寄ったりするのに、今日は何も無くて直接帰って来たそうだ。帰って来て自分の部屋を開けてみると、目の前に幸宏がいたんだからたまったもんじゃなかった。幸宏の方もびっくりしたらしく、真紀が部屋に入って来るなり、真紀に捕まらないようにかわしながら部屋から出て行った。真紀は部屋のドアを力強く閉めると、化粧台の前に座った。

(幸宏ったら、何考えているのかしら、昔は絶対にこんなことする子じゃなかったのに、お母さんから言ってもらうようにしないと駄目かしら)

そういう風に頭の中で色々と考え事が巡る真紀は、部屋の中をゆっくりと確認し始めた。それでも今日も何も荒らされたような形跡は無く、ますます謎が深まっていくばかりだった。いつもいつも真紀の部屋に入ることは無く、時々というのがちょっと気になるところだった。

(今日のところはまた大目に見ておくけど、とりあえずお母さんからきつく言ってもらうことにしようっと。。。)

真紀はそんなことを思うと、化粧を落とし部屋着に着替えた。もちろんこの時にも考えているのは弟がこっそりと部屋に入ることだった。さっきから、台所からおいしそうな匂いが漂ってくる。そろそろ夕ご飯の準備ができたらしい、夕ご飯を食べるために自分の部屋を出た。さっきまで自分の部屋でこそこそとした幸宏の姿がそこにはあったが、とりあえずは何事も無かったかのように食卓のいつもの位置に座る。

「お父さんはまだ帰らないの?」

真紀は何気なくお母さんに話し出す。

「今日も仕事で遅くなるって言ってたわよ。いつもながら、仕事仕事って言うんだけど、本当かしらね。早く食べて片づけてちょうだいね」

そう言うと、お母さんは居間のソファーにゆったりと座りながらテレビを見始めた。真紀は幸宏と向かい合って座っているので、食べながら、さっきのことを話し出す。

「幸宏。お母さんには黙っておくから、私のいない間に私の部屋に入るのはよしてね。わかった?」

真紀が渋り顔をしているのに、幸宏はいつものようにのんきな顔をしている。

「うん。わかったよ。でも、お姉ちゃん一つだけ条件つけていい?そしたら、絶対にやめるから」

素直に了解しない幸宏。まさか条件をつけて来るとは思っていなかった。幸宏が少しずつずる賢くなって来ているのは成長の現れなのかも知れない。真紀は弟に譲歩してしまうのも嫌だったが、その場ですぐに応えてしまった。

「絶対にやめるなら、いいわよ」

言ってからまだ条件を聞いていないのに、絶対にやめるという言葉につられて言ってしまったことに気づいた。しかし、時はすでに遅しである。食事をほとんど平らげた幸宏はしてやったりの表情を浮かべていた。

「条件聞いてくれるって言ったね。今のお母さんも証人だからね。聞いてたよね」

すると、向こう側のソファーに座っているお母さんが、手で丸の形をつくった。お母さんを味方につけたかった真紀にとっては、ちょっと誤算の展開、すっかり食欲を無くしてしまった。

「じゃあ、ご飯食べて片づけが終わったら僕の部屋に来てね」

幸宏はそう言うと食器を台所のシンクに置き、さっさと自分の部屋に籠もってしまった。台所には真紀と食べ残している料理が向かい合うようになった。

(一体、何だって言うのよ。変な条件でも条件を飲むって言った以上は守らなきゃいけないなんて。これなら部屋に入られる方がましだったんじゃないかしら、幸宏が何を考えてるかによるけど)

そう思いながらも、真紀の箸はもう動かなくなっていた。残された残骸が多いが、真紀は台所にある食器を片づけ始めた。食器を片づけはじめながらも後悔をしている真紀、今時の中学生が一体何を考えているなんて全くわからない、食器を洗いながらもどんな条件を突きつけられるのか気になってしょうがなかった。

全てを片づけ終わると幸宏の部屋に行った。これが中学生の部屋にしては整理の行き届いた部屋である。さすがに自分の弟だけあると真紀は思った。もちろん、真紀の部屋は幸宏の部屋以上にきれいに片づいている。真紀が幸宏の部屋に入るのはちょうど1ヶ月ぶりのこと、前に入った時と家具の配置が違っているのにちょっと違和感があったぐらいだ。幸宏は勉強机に座りながらパソコンの前にいた。

「幸宏。条件って何なのよ。早く教えてくれない」

真紀は幸宏のベッドの上に座って、幸宏の後ろから話しかける。早く教えてくれないと口では言ったものの、実際のところはゆっくりと言って欲しいのが本音だ。真紀の姉としてのプライドからか、そんな風に高飛車な言い方しかできないのだ。

「そうだったね。お姉ちゃん、一つだけ条件を聞いてくれるって言ったよね。その条件を聞いてくれたらお姉ちゃんの部屋にこっそり入ったりするのはやめるよ」

(この子ったら焦れったいわねぇ。何をもったいぶってるのかしら)

真紀はじらされると今度は、自然に早く聞きたい気持ちに変わって来ていた。これが人の気持ちというものなのか、ころっと変わってしまうからおもしろい。

「簡単な条件だよ。この口紅を練って僕とキスして欲しいんだ」

幸宏は机の引き出しから、細長いリップスティックを取り出した。真紀が前に使っていた某メーカー製のリップスティックと同じ形をしているから驚いた。しかも、キスをして欲しいと迫られたのだから変な想像をたくさんしてしまう。

「口紅って、それって私が途中まで使った物じゃない、唇に当たる感じが悪いから捨てたはずだったのに。。。って、まさか私の部屋でそれを探していたってことなの?」

真紀の驚いた表情とは別に、幸宏は落ち着いていた。

「そうだよ。お姉ちゃんに黙ってこっそり入ったのは悪いと思ったけど、これが何本か必要だったからね。お姉ちゃんの部屋のゴミ箱の中から拝借致しました。ごめんなさい」

全然謝る気持ちの入っていないごめんなさいだったが、真紀にはそれだけでどうやら十分だった。途中までの使いかけのリップスティックを探すために、ちょっと考えてみるとたいしたことの無い話に聞こえて来る。

「そんなことだったの?それで、なんで私がそれを唇につけて幸宏とキスをしなきゃいけないわけ?」

真紀は高鳴る興奮に任せて、声を高めていく、もう一歩興奮すれば間違いなく手が出てくるところだろう。

「まぁまぁ。抑えてよ。僕だってもう中学生なんだから、キスの練習だと思ってやって欲しいんだけど、どこかの国ではキスが挨拶代わりだったりするじゃない。挨拶のようなキスでいいからさぁ。条件聞いてくれるって言ってたでしょ」

そう言われると、真紀は反抗する余地が無かった。一回り年の離れた弟にしてはしっかりと考えられた作戦だったから。それに、論理が成り立っているだけに、真紀は妥協するしか無くなってしまった。

「そうよね。私が悪かったわ。それを唇に塗って、軽くキスするだけでいいのね」

真紀の目の前にはすっかり機嫌をよくした幸宏の姿があった。

「そうだよ。軽く挨拶みたいにね。口同士をちょっと付けるだけでいいよ。お姉ちゃんとならファーストキスにもカウントしなくていいでしょ」

この言葉を聞くと、真紀もちょっと気が引いてしまう。

「口同士って、頬に軽くとかじゃなかったの?幸宏ったら、条件多すぎだって」

ふてくされ気味の真紀を見ているだけでも、幸宏はニコニコした表情を浮かべていた。真紀の性格からして約束を断り切れないことを知っているからだ。幸宏が物心ついた頃には、真紀はすでに高校生だった。真紀は幸宏を小さい頃から躾けて来たから、親子の関係にも似たようなところがある。今回のことはちょっと冗談にしてもきつすぎることだった。しばらく沈黙の時間が流れると、真紀が意を決したように話し始めた。

「わかったわ。幸宏の言う通りにするから、これからは私の言うことを聞きなさいね」

ついに、真紀は幸宏の全ての案を受け入れることにした。この時、幸宏が小さく右手でガッツポーズをしていたことに真紀は気づいていなかったのだろうが、まんまと幸宏の策に填ってしまったようだ。真紀は幸宏からさっきのリップスティックを手に取ろうとした。しかし、幸宏は素直に渡してくれなかった。

「じゃあ、実行するのは明日の朝ってことで決定!!朝の準備ができてお姉ちゃんが家を出る時にお願いします」

今度は、幸宏が律儀にもお辞儀までして来た。こんな風に低姿勢になる幸宏の姿はあまり見られないので、真紀は自然に受け入れてしまった。

「いいわ。それが最後の条件よ、これ以上はもう聞き入れないからね」

真紀は最後に抵抗するわけでも無く、すっかり幸宏のペースに引き込まれてしまった。幸宏はリップスティックを机の引き出しに仕舞った。

「このリップスティックは机の引き出しに入れておくから、明日の朝お姉ちゃんに渡すね」

「わかったわ。じゃあ、私は自分の部屋に戻るから、おやすみなさい。明日は7時には家を出なきゃならないから、早起きするのだけは忘れないでね」

「わかってるって、ちゃんとその頃には起きてるよ。お姉ちゃんこそ朝の支度をちゃんとしておいてよね」

「大丈夫よ。じゃあ、おやすみなさい」

「おやすみなさい」

真紀が自分の部屋に戻って行ったあと、幸宏はパソコンの前に向かいEメールを打ち始め、いつもの夜を迎えていた。一方、自分の部屋に戻った真紀はちょっとの不安はあれど、すっかり気持ちが大きくなっていた。自分のプライバシーを守るためなら、あれくらいのことは大丈夫。そんな風に思いながらベッドの中でゆっくりと眠りについたのだ。

次の日の朝、不安な気持ちでなかなか寝付けなかった真紀だったが予定通り朝の早くから準備を始めている。化粧台の前に座るといつものように化粧を始めた。化粧台の隅には、さっき弟の幸宏から渡されたリップが立ててある。この細長いリップスティックは1週間前に捨てたはずのもの。キャップを取ってみると中には新品のような薄いピンクのリップが納められていた。

真紀は不思議だとは思いながらもいつものように冷静にファンデーションを塗っていた。鏡を見ると部屋の入口から幸宏がこっちを覗いているのが見えて気になったが、自分の許可無しにそこからは入ってくることが無くなったので、逆に安心しながら準備を進めていた。

一方の幸宏はと言えば、真紀とは違った感情で眠れなかった。Eメールを送った後は、チャットまで楽しんでいたようで、かなり夜中まで起きていたはずだ。それでも6時半を過ぎたばかりの朝だと言うのにお母さんも不思議に思うほどだった。実は幸宏は真紀が起きる少し前目覚めて真紀が起きるとすぐに例のリップを渡したのだ。

部屋の中にじっとしていられなくなった幸宏は、化粧台の前に座っている真紀の姿を見守っていた。部屋の中には勝手に入らないという約束をしたので、ここから先に進むことは無いが、真紀が出てくるのを今か今かと待ちかまえている。幸宏から見ると家を出る最後の仕上げに入ってるようだった。

「もう7時になるよ。家を出る時間じゃないの?」

化粧台の前でようやくリップを唇に描き始めた真紀に幸宏が言った。

「幸宏は学校に行く準備をしなくてもいいの?」

リップを塗り終わってティッシュを一枚抜き取ったところで真紀は言い返してやる。

「夏休みだもの。学校に行かなくてもいいんだって」

幸宏は学校の夏休みに入っていて、学校に行く必要は無いのだ。真紀は仕事で休むこと無く働いているというのに、いい気なもんだと思いつつ今はバッグの中身を整理していた。

「7時には出るって言ってたのに、実は余裕あったりするんじゃないの?」

幸宏はじらされる感じがして、今か今かとその時のタイミングをずらされているのにちょっと気分がイライラしていた。


時計の針が10分を指してから真紀がようやく部屋から出て来た。

部屋の中から出て来た真紀は会社に行くときの通勤服姿で、派手では無いけれどもフェミニンで爽やかな印象。裾の部分がシースルーになっている白のふんわりスカート、胸元が少し開いている白とスカイブルーのチェックの七部丈のブラウス。

いつも会社に持って行くパールホワイトの手提げバックの中に小さな携帯電話を入れながら、できるだけ幸宏を気にしないように玄関へと向かっていた。幸宏がいるかと思ってビクビクしていたが玄関付近に幸宏がいるような気配は無かった。

スライド式の下駄箱から、ピンクのサンダルを玄関に置くと小さな足を軽やかに差し込んでいく。かかとの部分には8センチのピンヒールが目立っていた。幸宏がいないことに安心したせいもあってか、昨日の話を忘れかけようとしていた。

家を出る準備ができたところで真紀が玄関を大きく開けると、目の前にはよく知っている少年が立っていた。

「お姉ちゃん、そろそろ家を出るんだよね。約束を守ってくれるよね」

その少年はもちろん幸宏。さすがに玄関の外では場所が悪いので、幸宏を玄関の中に連れ戻した。

「こんなところで待ってなんて卑怯じゃない」

真紀は幸宏が待ちかまえていたことを知りちょっとがっかりしてしまった。幸宏は柄物Tシャツにジーンズのハーフパンツ姿。玄関が狭いため靴を脱いで真紀よりも一段高い場所に上がった。

「守ってくれるって約束なんだから、ちゃんと守ってもらうよ。そうじゃないと……」

ここまでいいかけて真紀は白旗を揚げていた。

「わかった。わかったって。だから、静かに落ち着いて」

真紀がそう言うと玄関の雰囲気が一気に静まり返った。

「唇と唇だよ。わかってる?」

(すっかりとませてる弟だけど、今回はしょうがないわね)

「目つぶりなさいって」

真紀がそう言うとお互いの顔が迫り来る感覚が漂ってくる。


3秒ほど唇同士が重なり合ってから現実の世界に戻って来た。端から見ると姉弟同士の危ない関係に見えそうだったが、誰も見ることが無かった。現実の世界に二人が戻されて来ると、さっきまでとは逆の方向を向いていることに二人は気づいていた。目のピントが合うと同時に、ちょっとした異変が起こっていたのだ。

「あっ、私!?」

幸宏の唖然とした言葉が玄関に響いたが、真紀の方はすばやく玄関の扉を開けて駆け出すように外へ出て行ってしまった。

唖然としている幸宏は事の状況を瞬時に察知して、さっきまで履いていた運動靴のかかとを踏みつけながら真紀の後を追いかけはじめた。








 

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