『蒲公英』 作:菓子鰹 火矢が放たれた。 火は屋根に移り、館を燃やす。炎は漆黒の夜を朱く濁らせる。 火の粉が爆ぜる。 「くそっ、泰衡のヤローめ、裏切りやがったな」 「哀れなり。泰衡。自ら、滅びの途を選びおったか」 「何で、そんなに落ち着いてられるんだ! この能面野郎!」 炎は障子に二人、争う影を映す。 「止めろ。もう、いいのだ、弁慶」 もう一人の声。どうやら、部屋の中には三人いるようだ。 「何を仰るのです! 敵なんてあっしが斬り捨ててみせますって!」 「もう、よいのだ。館は囲まれている。 みんな‥もういない。 私たちは敗けたのだ。すまぬ。武蔵坊弁慶、常陸坊海尊。最後までいてくれてありがとう。 おまえたちといっしょに死ねるのなら、私は幸せだ」 「そんなこと言わないでください! あっしがいる限り、主には指一本触れさせません!」 弁慶が叫ぶ。 「弁慶。その言葉に偽りはないか?」 海尊は語りかける。 「あったりまえだ。この命尽きようとも、相手の前に立ちふさがってやるよ」 弁慶は立ち上がり、障子を殴る。木の枠が千切れ、障子は弾ける。 頭に頬被り。衣服には法衣。身長は、やや弁慶の方が低いようだ。 炎は二人、聖風の男を照らし出した。 「我が君。方法がないわけではございません。しかし、それには源義経の死が必要ですが」 海尊が提言する。 「てめえ、主を売り飛ばすつもりか!」 弁慶が、海尊を殴り飛ばす。 「相も変わらず、せっかちで乱暴よのう。儂は、世間的に死んでもらうと言ったつもりだが」 海尊は刀を掲げる。 「妖刀 朱申。遥か昔に、とある僧が、猿神を封じたというが、嘘か誠か」 海尊は刀を鞘から抜く。刀は朱い光を反射する。 「しかしながら、この刀を鞘から抜いたものは、猿神の姿と力を得るのは事実」 海尊の姿は、小柄な猫背の男へと変わっていた。 「源義経の姿に二つの説があるのは、至極当然。どちらも同一人物だったのだからな」 その姿は、当に猿。 「これで、今の源義経は私。あなたはもう、何の関係もないのです」 言われてみればその特徴は、伝記上の義経に一致する。 「何を言う、海尊! 猿神の力を使えば、逃げるだけならできるかもしれない。わざわざ身代わりになるなど‥」 闇の中の人物が叫ぶ。 「実の兄を討てますかな?」 海尊は問う。 「そ‥それは‥‥兄上にも事情があるのだろう‥‥」 「そんな事はわかっております 勅を受けた以上、源頼朝は源義経を討たなければならない。それは絶対です。 かつて、源義経が勅を受けたときのように。 もし、この状況を打破できるとするなら、それは法皇の死に他ならないでしょう」 「‥しかし‥逃げ続ければいつかはきっと‥‥」 「あなたはやさしい。頼朝様を討つことが出来たに関わらず、敢えて、逃げる道を選んだ。 しかし、頼朝様は違うのです。武士も統首がいなければ、夜盗と何ら変わりはない。 荒くれ揃いの坂東志士を統率する為にも、あの方は規律に厳格でなければならないのです。 第一、若し、我らが逃げ続けたとしても、その責任は藤原氏にかかるだけです。 耐えられますか? 以前、彼らと一緒に過ごされたあなたに」 影の中の人物は黙る。 「理解されましたか。では、これからの計を話させて頂きます。 源義経の切腹とともに、敵兵は御大将の死体に群がるでしょう。同時に、館の包囲は手薄になります。 あなたは裏の壁を登り、最も包囲の薄い場所を破って脱出して下さい」 影の人物は何も言わない。 「了解されましたかな? 源義経としてのお役割、今まで誠にありがとうございました。では、私はこれにて」 海尊は、壊れた襖から出ようとした。 「だめだ!」 少女が海尊の足にしがみつく。少女の頭から、直垂が落ちる。墨の髪が、流れ落ちる。 「話を理解されなかったのですか? 姫」 「どうして、どうしておまえたちは、すぐに死のうとする!」 少女は起き上がって、海尊に訴える。 「姫」 一息置いて、海尊は少女に話しかける。 「我々、武士というのは、己が武を頼りに生きて参りました。 故に、覚悟はできています。 常に、庇護され、保護されてきた貴女とは違うのです」 「‥しかし‥‥だが‥‥」 「姫。貴女はやさしい。私のようなものの為にも泣いて下さるか。ご安心下さい。 これは無駄死等ではございません。貴女を護って死ぬことができるのですから。武士としての本懐です」 海尊は、少女の目じりをぬぐう。 「‥どうしても‥‥どうしても‥逃げないのか‥‥」 「ええ。今、逃げたら、先にあの世に行った佐藤継信にも怒られますから」 海尊は微笑む。 「武運を‥武運を祈る‥‥」 泣きながら、嗚咽を抑えて、少女は、海尊に笑いかけた。 「弁慶。海尊は‥海尊は‥残るといっている。仕方がない‥私の保護を頼む‥‥」 少女は海尊から目を外す。 「残念ですけどね、姫さま。あっしも残らしていただきます」 「何故だ! 弁慶。おまえまで私を‥私を捨てるというのか! 勝手に迎えに来て、勝手に祭り上げて、今度は、勝手に捨てるというのか!」 少女は啼く。 弁慶は、少女の両肩に、優しく手をのせる。 「ええ。積み上げてきたものを壊すのが武士なもんで。 それが、関係だろーが、感情だろーが、例外はありません。 だから、早く、あっし達のことも捨てて下さい、姫」 弁慶は歯を出して笑う。 「‥やはり‥肝心な場面では私は除け者なのか‥教えてくれ、私の何がいけないのだ! 武芸や勉学も、確かに武士と比べると差が出てしまうかもしれないが、それなりにやってきたつもりだ。 それとも、私のやってきたことなど、お遊戯程度だったのか? 何故、みんな‥私を置いていったのだ! どうして私をいっしょに連れていってくれなかった!」 少女は心の中を吐く。 弁慶は、少女を全身で包みこむ。 「姫の努力には驚かされました。 姫の学は、平氏や源氏に媚を売ってた、そこら辺のエセ武士より、透き通ってますし、 武にしても、頼朝公が重んじてる、名前だけのボンクラ大将よりは、遥かに洗練されてます。 もちろん、姫ならば今頃、百の首は軽く獲ってたでしょう。 だからこそ、護らせて頂いたんですよ。 あっし達は、襲い掛かる武士からではなく、降りかかる血の雨から、姫を護らせて頂いたんです。 姫にはきれいに生きていてほしい。ま、飽くまで、あっし達のワガママですけどね‥がっはっはっはっは」 弁慶は、更に一層笑う。 少女は弁慶を濡れた瞳で見つめる。 「主。何か勘違いしてません? あっしは死にませんよ。この能面野郎と一緒じゃ、死んでも死ねませんって。 第一、今までにあっしが死んだことがありますか?」 「‥ないが‥‥」 「でしょ? だったら、主は先に行って、あっしの到着を、ごゆるりとお待ち下さいな」 突拍子すぎる冗談に、少女はくすりと、笑う。和やかな談笑は、一瞬、滞った空気を弾き飛ばした。 「では、私は先に行っておく。必ず後から来るのだぞ、弁慶」 「あいあいさー、主。天下無敵、史上最強、百戦錬磨。この武蔵坊弁慶、後から合流します」 少女は弁慶の大言に笑い続けている。 「巧言令色を忘れているぞ」 少女は笑いながら言う。 「そうですね、主‥‥ってあっしが口先だけみたいな言い方はやめて下さいよ」 「‥え? 違うのか?‥‥」 「違いますって。非道いですよ、主。あっしは‥うっ‥うぐぉぉおおぉぉ‥‥」 弁慶は足を押さえて、蹲る。 「どうした! 弁慶」 「あ‥足の小指を円座にぶつけたみたいで‥‥このままでは、痛みでショック死するかもしれません‥‥」 「そんなことを言うな! 私がついている!」 「主、最期にお願いが。舞ってくれませんか?」 「‥い‥今‥この場でか‥‥?」 少女は照れからか、吃る。 「しぃ。今、この場で」 弁慶は、にかっと笑う。 「ま‥舞うのはあまり‥自信がないのだが‥‥」 少女は顔を赤らめる。 「気にしないで下さい。そんなトコもお楽しみポイントですんで」 「小賢しいやつだ」 少女は微笑む。 少女は直垂を取りに行く。 「剣舞でよいか?」 「何でもオッケーです」 円舞。 手が弧を描く。身体が円を創る。波紋のように、弧は増える。 創世。 その幾何学文様は、太陽系を巡る地球。 少女は舞う。 明るく。 やさしく。 ほがらかに。 ほんの少しの翳りを残して。 少女は舞いを終える。 「いやいや。すんばらしかったですよ。ほら、海尊なんて泣いてますもん」 「何故、儂が泣かねばならん」 海尊が答える。 「またまた〜、そんなこと言っちゃって〜。どーせ、消えていった仲間達のことでも思い出してたんでしょーが」 海尊は弁慶を無視して、少女の下に跪く。 「姫。もう時間もありません。すぐにここは、夜襲がかかります。 今まで、源義経としての役割、誠に感謝。貴女についてきて幸せでした」 海尊は別れの言葉を遺す。 「今までありがとう」 少女も言葉を返す。 想い出の全てをこめた、別れの言葉。 「勿体無き御言葉。本当にありがとうございました」 海尊は深く、礼をした。 「んじゃ、せっかくってことで、あっしも挨拶しときましょうかね」 弁慶は少女の下に近づく。 弁慶の表情に力が入る。 「姫。今までご苦労さまでした。 もし、三日しても会うことがなかったなら、そのときはあっし達のことは忘れて下さい」 少女の表情の中の不安が大きくなる。 「もしですよ、もし。万が一、いや、億が一。ま、あっしを討てる武将なんているはずがないですけどね」 弁慶は笑う。 「何故、そんな話をする! 今まで未来の話なんて、一度もしなかったではないか! まして、おまえのいなくなった後の世界の話など‥‥」 少女の声が途中で途切れる。まだ泣いてはいないようだが。 「脅かしちゃってすみません。只、心構えをちゃんとしていただきたかったもんですから。 大丈夫ですよ。あっしは負けません。 あ、そうそう。後でまた、稽古ですよ、姫。あんな剣捌きじゃ、道にいる鼬鼠も斬れませんから」 弁慶は微笑む。 陽炎だろうか。弁慶の姿が揺らぐ。 「その言葉は本当か?」 「もちろんですよ。ちゃきちゃきっと片付けて、すぐに会いに行きます」 「必ずだぞ! 私のお腹の中にはおまえの子どもが‥‥」 壊れ落ちそうな表情で、少女は弁慶に縋る。 弁慶は少女の髪を、くしゃくしゃっと崩す。 「安心しました。姫も嘘がつけますようになりましたか。これで、あっしも安心です」 「ちがうのだ。本当に‥」 「もうそろそろ、お時間です。会えて、うれしかったですよ」 少女の言葉に割りこんで、弁慶は言葉を遺す。 「さようなら」 とても冷たい言葉で、弁慶は別れを告げた。 少女の背中が闇へと消える。 「気丈な方であったな」 海尊は呟く。 「ああ。とても素直で、うぶな人だった」 弁慶は返す。 「純朴で、まるで、野山に咲く蒲公英のような方であった」 「勝手に何言っちゃってんの、アンタ。気持ち悪っ!」 「弁慶‥」 「話しかけるな。あっちの世界に行く前に、自分の世界に旅立ったやつに話しかけられたくないわ」 閑けさが続く。 「弁慶。姫の言葉は本当に嘘であったのか?」 「気になるのか? 海尊」 弁慶は嫌らしい笑みを浮かべる。 「いや。只、散っていった佐藤継信が泣くかと思ってな」 「ああ。確かに。冗談でも殴られるかね?」 「殺されるだろうな」 「納得。ツグツグだったらありえる」 弁慶は、深く頷いた。 「で、結局、悔しいのか? 海尊」 弁慶は問う。 「何故、儂が」 「なら、何で、最期まで姫についていくことにした?」 「源の勝利の為に」 「嘘つけ。どちらにしても、この度の戦の勝者は、平氏だ。 当然だ。源平の合戦と言われる戦いは、実際は関西平氏と関東平氏の政権争いだったわけだからな。 源氏は只、利用されただけだ。一源氏である常陸坊海尊に生命をかける理由なんてないだろ? 結局さ、おまえも、姫に惹かれた一人なんじゃないのか?」」 「そうなのかもな」 海尊は、微笑みながら頷いた。 「そろそろ、話す時間もなくなってきたな。弁慶。向こう脛の古傷は大丈夫か」 「何のことだ?」 風が、音を立てて吹く。 「とぼけるな。先ほど、痛がっていただろう。 そうやって、結局大切なことは全て、 自らの中に閉じ込めてしまうから、肝心な場面で姫に信頼されないのだぞ」 弁慶は一息つく。認めて、受け容れたような、諦めの溜息。 「いや。それでいいのさ。あの人は、とても、澄みきっている。 初めて戦場に出たとき、あの人は、血を見て、泣いていた。 源の血を受け継いでいるものの、俺達とは違う種類の人だ。 次の世代に残せる人だ。できるなら早く、俺達のことは忘れてもらいたいねぇ」 一瞬の静寂。風の音が響く。 「弁慶。そなたは逃げろ。姫はそなたなしにはいられないだろう」 「いや。そーゆーわけにはいかないな。 俺は血を浴びすぎた。 平和な世界に武士はいらない。 あの人が生きる世界に、血はいらない。だから、俺は武士を皆殺しにしないといけない」 「それは、儂とそなたをも含むのか」 「ああ」 弁慶は間髪を入れずに答える。 「だが、姫はどうする。あの方を残したまま、独りで果てる気か」 海尊は弁慶に掴みかかる。 「まぁ、落ちつきなさい。 よく聞け、海尊。あの人は強い。たくさんの武士の死を乗り越えてきた。 だから、今回も何も問題はない。だが、そんなに気になるんなら、おまえが主と逃げればいい」 海尊は弁慶を殴る。 「そなたは今まで、姫の何を見てきた! 姫は何も乗り越えてはいない。 只、内に閉じこめてきただけだ。締めつけて、自らの嘆きを抑えてきただけだ。 そのようなこと、常に姫の側にいたおまえならわかることではないか!」 「ああ。そうかもね。 だけど、言っただろ? 俺は血を浴びすぎたって。俺は、古いやつさ。 新たな時代を迎えるこれからに、武士は必要ないんだよ」 「ははははは」 海尊は笑う。 「要は、身分違いの恋に戸惑っているだけではないか。それだけのことであろう。武蔵坊弁慶」 「ああ。 怖いんだ。 あの人はたんぽぽだ。道端に咲いて、心を和ます。 俺は、武士だ。刈ることを生業とする。きっと、俺は、無警戒のあの人を刈ってしまう」 弁慶は手を震わせる。 「ふはははは。武蔵坊弁慶ともあろう者が、何とも平凡な悩みを。 よいか。武蔵坊弁慶の源義経への忠誠は本物だ。間違っても、造反等起こす訳がない。儂が保証しよう」 「しかしだ‥」 「姫は、名を偽り、歳を偽り、性を偽ってこられた。 偽りの中で生きてこられた方だ。 そんな姫が、間違った愛を選ぶ筈もなかろう」 「うわっ、愛だって、ハズっ! 陶酔しきっちゃってるよ」 「‥‥」 「血の臭いが乾いてきた。これが最期の言葉になりそうだな」 弁慶は大長刀を手に取る。 「逃げろ、弁慶」 「死出の供はいらないのか?」 「迎えは向こうに、死ぬ程いるわ」 「ちゅーか、死んでるけどな。ま、結局、俺は残るけどね。 だって武士ともあろう者が、敵さんに背中を見せれるわけがないでしょーが」 「貴様‥」 「悪いけど、俺は許せないんだ。姫を裏切ったヤツら、全員斬って、それから、のんびりさせてもらうわ」 「無理はするな」 「俺を誰だと思ってるんだ?」 「うむ。そうであったな。姫は任せたぞ」 海尊は最後に微笑った。 二人が別れる。 同時に門から兵が雪崩れこむ。 「いたぞ、源義経だ」 陰に消えかけていた海尊に、兵が襲いかかる。 「俺を忘れてもらっちゃ困る」 弁慶の横を通り過ぎた兵がバラバラに壊れる。 兵が一瞬、立ち止まる。 「おまえを討ち捕って、俺も‥」 何人かの兵が跳び出し、四肢を裂断される。 「捕らえるだと? この俺をか? 俺は武蔵坊弁慶。文句があるヤツは前に出てこい」 一人の武将が出てくる。 「貴様ほどの剛の者、我が相手に相応しい。我が名は‥」 「ただし、死にたいのならな」 一閃。 脳髄から馬の尾まで。 身体が馬と供に等分される。 馬の嘶きが已む。 瞬間が止む。 弁慶が足を出す。 「一騎当千という言葉を知ってるか? 一匹の鬼は千の雑兵に匹敵する。 今日、おまえらはどれくらいで攻めてきてるんだ? 五百か? 六百か? まぁ、どちらにしても、おまえらは全員死ぬんだがな」 張りつめた瞬間は動きだし、兵は門を逆流する。 逃げる兵は門で後続と衝突し、軍は麻痺する。 弁慶が大長刀を振ると同時に、数十の身体が寸断される。 「久しぶりだな、全力で戦うのは」 門で詰まった兵を伐る。 弁慶の後ろに屍の道ができる。 兵が、将が、馬が屍の道を伸ばす。 屍の道が門をくぐる。 「おいおい、脆いにもホドがあるぞ。 せめて、一太刀くらいは浴びせてくれよ。 そうしてくれないと、猛ることもできないだろ?」 兵は一目散に逃げだす。 「ええい、静まれ。いくら強くとも所詮は人間。武蔵坊弁慶、何するものぞ」 一人の武将が軍を御する。 「おまえが大将か?」 「残念ながら大将の長崎殿はここにはいないので、それがしがお相手いたそう。それがしの名は‥」 「ああ、名前なんていらない。武士だったら、己が武で語れ」 副将は、一騎飛び出し、夜に向かって跳ぶ。 身体を反り、全てをかけて、弁慶に斬りかかる。弁慶は長刀の柄で受ける。 「軽いな。これが、天下から逃げてきたヤツらの剣か。軽すぎる。 それで武士を騙るか。今まで斬ってきたヤツらも、おまえよりはマシだったぞ。所詮は副か」 弁慶は長刀を払う。副将の持っていた刀が砕ける。 投げられた副将と馬は宙を駆けぬけ、鈍い音をたて、左腕から地に落ちる。弁慶はゆらり、近づく。 軍勢の核に入った弁慶は、すぐに周りを塞がれる。 兵は全方位から囲撃する。そして、分解されていく。 「ジャマだ、雑魚。殺されたくなかったら、速やかに死ね」 兵の壁が崩れる。身体の一部が飛び散る。 武将は新しい馬に乗り換え、弁慶から逃げる。 弁慶は、館の方へ振り返り、 「姫のために生きたか。けっ、幸せなヤツだぜ」 修羅の道へと踏み出した。 弁慶は手頃な武将を斬って、馬を奪う。 副将を追う。 弁慶の前に兵の壁が現れ、そしてまた、崩れる。 副将を追い直して、壁が現れ、そして崩す。 その繰り返し。 少しずつ、距離が離れる。 壁を崩す。 飛び交う部品に紛れて、矢が飛んでくる。長刀を振るい、幾つかの矢は落ちるが無数の矢が刺さる。 橋の上。 弁慶はその眼に、副将の姿を確認した。 弁慶は、馬から跳び、長刀を両手で振り下ろす。副将は馬を走らせて逃げる。 長刀は、副将の馬の臀部を裂き、橋を割った。 臀部が開いた馬の足は、地を捉えなくなり、後ろのめりに潰れる。 宙に浮いた副将を弁慶は狙う。 「弓兵、射よ」 橋の上の弁慶に矢の雨が降り注ぐ。足に、腕に、背中に、矢が喰いこむ。身体中に矢が刺さり、弁慶は針鼠になる。 血が吹く。長刀が落ちる。共に弁慶の身体が揺れ、川へと落ちる。 矢の雨がやむ。 矢鼠は立ち上がる。 「軽いな。こんな芸で、仲間がやられたのか。信じられん。ちゅーか、情けないわ。 別に、怨みを言うつもりはない。最初からみんな、死ぬことは覚悟しているからな。武士の宿命だ。 それはそれでいい。 だが、何故、あの人にまで手を出そうとする! 何故、あの人の幸せをぶち壊す! あの人は、武功も名誉も望んでいない。あの人は只、当たり前の幸せを望んでいるだけなのに。 許せない。 あの人を弄んだ運命も、何もできない俺も、そして、あの人の幸せを壊そうとするおまえたちもだ。 容貌を残すのも気に入らない。大人しく、忌ね」 弁慶は、長刀を手に取る。 矢が放たれる。 雪の下で春を待ちわびた花たちは、日ざしの合図とともに咲き始める。 女性は頭から笠を被り、大きな荷物を背負っていた。 少年たちが花畑で遊んでいる。 「ねぇ、母上、ちょっと、遊んできていい?」 「あ、こら‥‥」 言うが早いか、少女は母親の手から逃れ、少年たちの中に混じる。 「ふぅ」 女性は、近くにあった木の下に座る。木陰にも植物が生えていた。花はまだ、咲いていない。 女性は、花畑で遊ぶ少女を見る。 「‥今日も見つからなかったか‥‥ まったく‥何をしているのだろうな‥私は‥‥ 小さな子どもを連れ回して、一体‥私は何を探している‥‥? いや、わかっているのだ。おまえがもう‥いないことは‥‥ だが、どうしても探してしまう。わかっていて、それでも、期待してしまう。そして、いつも裏切られるのだ。 いつまでもおまえに固執してはいけないのだろう。娘にとっても、その方がよいに決まっている。 わかっている。 わかってはいるのだ。 だが、気がつけば、おまえと別れたここに戻ってきていた」 女性は、笠を外して地面に置く。地面も春を迎えたらしく、温もり始めている。 「おまえは、全てのものは時間によって風化すると言ったな。 嘘つきめ。 私のおまえへの気持ちは、まったく変わりはしなかった。 あのとき、おまえは、後から来ると言ったではないか! それなのに、七年経っても、おまえは現れない! やはり、おまえは口先だけだ!」 女性は蹲る。時間が経つにつれて、女性の顔に日ざしが当たり始める。 「いや‥ 最初から知っていたのだ‥ おまえがあのとき、もう私と会うつもりがないことを。 やはりあのとき、無理を言ってでも残るべきだった。 だがそれでは、おまえが悲しむ。だから、私は逃げたというのに。 おまえがいなくては、何の意味もないではないか! おまえは勝手だ! おまえは、私を護れて満足かもしれない。だが、私はどうなる! みんなの犠牲のおかげで生きている以上、簡単に死ぬこともできない! 私は、おまえに会いにはいけない! 今も剣は続けている。 帰ってきてくれ! 弁慶! 弁慶‥ 弁慶‥‥ もう私は折れてしまいそうだ‥ あのとき、どうすればよかった! これから、どうすればいいのだ!」 「のんびりしましょ」 突如、日ざしが遮られる。男が立っていた。 「約束どおり、会いに来ましたよ、姫。ちょっと遅れちゃいましたけどね」 女性はしきりに、目を擦っている。 「でも、姫が悪いんですよ。何せ、集合場所を言わないで行っちゃったんですから」 女性は手のひらで男の顔を触る。 「ちょっ、そんなにぺたぺた触らないで下さいよ〜。 そんなに珍しいもんでもないでしょーに。あっしは大熊猫じゃないんですよ」 「本当に‥本当に‥弁慶なのか‥‥」 女性は呟く。 「あっしが大熊猫に見えますか?」 「弁慶!」 女性は弁慶に抱きつく。 「ちょっ、子どももいるんですよ」 「すまない」 女性は、笑いながら弁慶から離れる。 「何がおかしいんです?」 「初めて素のままのおまえが見れた」 弁慶は赤面する。 「そうだ。紹介しよう。こっちにおいで、向日葵」 女性は子どもたちの中に話しかける。 「何? いやだと? 早く来なさい。いいから来るのだ!」 執拗に、娘を呼び、手招きする母親を弁慶は制する。 「いえ、いいですよ。せっかく、楽しんでいるみたいですし」 「すまぬな。本当にあの子はおてんばで困る。まったく、誰に似たのやら」 「え? 姫じゃないんです?」 「失敬だ。私はもっと、おしとやかだったぞ」 女性は胸を張る。 「昔、あっしの長刀を持ち出した子どもは、どこの誰でしたっけ?」 「え、あ、そうだったかな‥‥?」 「戦場まであっしたちを追いかけてきたのは?」 「いや‥それはだな‥‥」 「さぁ、弁慶。いっしょに北へ行こう。 今度は一人にはさせないぞ、私も戦う。もうおまえだけに、傷つかせはしない」 女性は、荷物の中から刀を取り出す。 「いいえ。そんなものは捨てて下さい。 みんなもう、片付きました。あっしたちの顔を知るやつももういない。 もう、逃げなくてもいいんです。 もう、普通になってもいいんです。 南へ行きましょう。 南へ行ってのんびりしましょ」 弁慶は向日葵を呼ぶ。 向日葵は、声に誘われ、やってくる。 「よっこいしょっと。ちょうどくらいの重さだ」 弁慶は向日葵を背負う。 女性は弁慶をまじまじと見つめる。 「弁慶も年をとったのだな」 「そう言う姫も変わりました。ずいぶんときれいになった」 「おまえのそういうところは変わらないな」 女性は呆れたように言う。 女性は立ちあがり、歩き始める。 「ところで弁慶。ぱんだとは何だ‥?」 「ああ。そのうち教えてあげますよ」 一家は南へ向かう。 木陰に一輪の蒲公英が咲いていた。 |