秘密企業ゼリージュース関東支部物語
 作・JuJu


(1)

 関東のとある場所(すまない。くわしい住所までは教えられない)に、俺の勤める会社がある。会社名は――仮に〈秘密企業ゼリージュース〉とでもしておこうか。
 転職して一年。俺もようやく、この会社に慣れつつあった。会社に慣れるのに一年もかかったのかと、あきれ顔の向きもあるだろうが、それは早まった考えというものだ。会社の内情を見てから判断して欲しい。
 その会社は表向きは普通の食品関連企業で、どこにでも売られているようなゼリージュースの研究開発をしている。
 ところがそれはカモフラージュで、極秘裏に、〈特殊なゼリージュース〉を造っている。
 特殊なゼリージュースといっても、一見ジュースに見えてじつはアルコール度の高い酒だとか、そんなチャチなものではない。この世のものとは思えない、奇妙なゼリージュースの研究開発をおこなっているのだ。

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 東京都心。一流企業の本社ビルが建ち並ぶオフィス街。名実ともにこの国のビジネスの中枢。そこで俺も働いていた。エリートといえば聞こえはいいが、休日も取れず、終電間際まで働く毎日だった。仕事に追われマンションに帰って寝るだけの日々。そんな中、俺は偶然、〈特殊なゼリージュース〉を飲んでしまい、それが起因でトラブルに巻き込まれ、前の職場から逃げるように今の会社に転職した。給料は減ったが、独身だからそこまで金が必要なわけでもない。転職するはめにあったものの、今ではのんびりとした日常をおくれるこの職場に満足している。
 ――あることを除けばだが……。
 そう。奇妙なゼリージュースを開発しているということのほかにも、この職場には、とんでもない問題があった。

 ・ ・ ・

 午前八時半ちょうど。俺は丘のふもとの駐車場に愛車を停めた。隣には、いつ洗車をしたのかと問いつめたくなるような土ぼこりをかぶったジープと、逆に磨き込まれて鏡のような輝きを放つスクーターが停まっている。それぞれ、俺の同僚の有部(あるべ)の車と日宮島梨花(ひみやじま りか)のスクーターだ。
 すこし遅れているのか、いつも社員のだれよりも早く出社している支部長の車がないのは意外だった。
 俺は車から降りると、丘の上を見上げた。なだらかな丘の頂上に、俺の勤める会社の建物があった。上り坂をあそこまで歩かなければならないのかと思うと、わずかに気が滅入る。「……社屋の隣に駐車場があればいいのに」と、恨めしくつぶやく。
 会社の建物は丘のてっぺんにぽつんと立っている。その周囲は、辺り一面芝生(しばふ)が生えているだけで、視野をふさぐような障害物は一切なかった。これは、万一何者かが敷地内に迷い込んで来ても、すぐに発見できるようにするためだ。丘のふもとは、円で囲むように柵がぐるっと取り巻いている。柵はひとが乗り越えられない程度に高い。柵は一見、懐古的というか牧歌的というか、つまりは古ぼけたデザインに見えるが、それは見た目だけのことで、実は最新技術の粋を集めたセキュリティーの固まりだ。もちろん、人畜無害。触れたからといって感電したりはしない。ただ、社内にけたたましい警報音が鳴るだけだ。最新技術は侵入者があれば確実に関知するその感度にある。
 さらに番犬として、ラブラドールレトリバーという種類の大型犬も放たれている。性格がおとなしくてひとなっこいので、番犬というよりも、俺たち社員のペットという感じだが。
 そんな牧歌的に偽装された柵の門を、電子ロックを解除して通過する。
 敷地内は手入れもされず伸び放題に葉を伸ばした芝生が、やわらかな春の風に吹かれて緑まぶしくそよいでいる。どこからやってきたのか二頭のモンシロチョウが、風に踊らされながら小さい白い羽を羽ばたかせている。その真ん中を横断するように、レンガで作られた赤茶色をした一本の歩道が続いている。道の先に見える、丘のてっぺんの三階建ての建物が社屋だ。ちなみに隣に二階建ての建物もあるが、あれは研究棟だ。営業職の俺はめったに入らないが。
「わんわん!」
 と、そこに犬の吠える声が聞こえた。
 茶色い毛並みは春の朝日を含ませて黄金に輝いていた。梨花が手入れをしているだけあって、毛並みはサラサラだ。その毛並みをなびかせて、巨大な体躯を揺らせながら駆け寄ってくるのは、この会社のアイドル〈じゃがいも〉だった。念のために言っておくが、じゃがいもというのはもちろん植物の名ではなく、さきほど説明した犬の名前だ。ラブラドールレトリバーの巨大な牝犬だ。
 じゃがいもの名前の由来は、子犬の頃じゃがいものようだったからだそうだ。俺も子犬の写真を見せてもらったことがあるが、毛並みが明るい茶色をしていて、眠るときのくせなのか、手足をかかえこんで丸くなっていた。なるほどじゃがいもに似ていた。もっとも成長した今では、岩石(がんせき)という感じだが。
 そのじゃがいもが、いつものように嬉しそうに俺に向かって走ってくる。このあとじゃがいもは、俺の目の前で止まり、甘えた目をして、なでてほしいとばかりに首を伸ばして頭を差し出すのが日常だった。
 ――だが、どういったわけか今日に限って速度を落とす気配がない。いやそれどころか、俺に近づくに連れてさらに速度が増しているような気がする。
(このままでは、暴走したじゃがいもにぶつかる!)
 目の前で止まるものと思いこみ、すっかり油断していた俺はじゃがいもに飛びつかれ、そのまま芝生に押し倒された。
 仰向けに敷かされた俺の上に、じゃがいもは覆いかぶさるようにその巨体をのせて来た。その後じゃがいもは、なにをしてくるわけでもなく、身動きのとれない俺をただ嬉しそうな表情でながめているだけだった。噛みついてくるようなそぶりはないのでわずかに安堵する。
(それにしても今日のじゃがいもはいったいどうしたんだ。甘えん坊ではあっても、いままで人を押し倒すようなことは一度もなかったはずなのに)
 俺が疑問に思っていると、じゃがいもが言った。
「えへへ……。一矢(かずや)さんを押し倒しちゃいました……」
 俺は犬が人の言葉をしゃべったことに驚いたが、すぐに状況を理解する。
「まさか……梨花か?」
 よくよく見れば、じゃがいもの首には梨花の社員証がぶらさがっている。他の者に変身している状態のとき、正体をあかすために社員証を目に見えるところに提げるのが、この会社の規則なのだ。
「あたり! 今日のゼリージュースは、じゃがいもへの憑依になりました。どうです、犬のふりだってうまいもんでしょう。全然気がつきませんでしたよね?」
 俺に覆い被さったまま、じゃがいもになった梨花は誇らしげに言う。
「外に出てもいいのか。じゃがいもに変身していることが社外に漏れたら、大変なことになるぞ」
「大丈夫ですよ、ここだって会社の敷地内なんだし。じゃがいもの真似だってそっくりでしょ? わたし、絶対にばれない自信があります。ゼリージュースのことを知っている一矢さんでさえ、わからなかったじゃないですか」
 そうは言ったものの、梨花も不安になってきたのだろう。じゃがいもの顔が若干(じゃっかん)曇る。
「けど……そうですね……」
 じゃがいもは俺から降りると、しずかに社屋に戻っていった。
 俺は立ち上がると軽くためいきをつき、スーツについた芝をはたいて落とす。
 じゃがいもに憑依している梨花も、この会社の社員だ。見てのとおり、子供っぽい性格ではあるものの、仕事に関しては有能だ。なにしろ人手がないので、経理を初めとした事務のほとんどを梨花が切り盛りをしている。
 なぜ梨花が犬のじゃがいもに変身していたのか。どうやって憑依したのか。その辺のことを知りたいだろうが、それは社屋に入ればわかる。
 俺はじゃがいもが帰った軌跡をなぞるように、ゆるやかな勾配を歩く。芝生に挟まれた、散歩のための小径(こみち)のようなレンガ敷きの一本道を進むと、やがて丘の頂上にある社屋に着く。
 ガラスの扉を開けて社屋の中に入る。玄関は、奥に続く廊下と、上の階に上るための階段にわかれている。建物自体はありふれた中小企業の社屋だ。
 そんな平凡な風景のなか、目を引くのは人の背ほどもある透明なガラスケースの冷蔵庫だ。玄関に入ってすぐの場所に堂々と置かれている。中は、色とりどりのゼリージュースが入れられたビンが行儀良く並んでいる。
 俺はゼリージュースの入ったガラス張りの冷蔵ケースを横目に見ながら、ケースの隣にあるタイムカードを押した。さきほどこの会社は奇妙なゼリージュースを開発している秘密企業と言ったが、それゆえにこの会社の入社資格はきびしい。そもそも一般には知られてはならない品を扱っているのだから当然といえば当然なのだが。ちなみに条件のひとつは、過去にゼリージュースを飲んだ経験がある者というものだ。言うまでもないが、ここで言うゼリージュースとはただのゼリージュースではない。日常を平穏に暮らしていれば、決して目にすることがない特殊なゼリージュースだ。
 俺も過去に一度だけ飲んだことがある。あのときはひどい目に遭った。思い出したくもない。そして二度とゼリージュースは飲むものかと固く決心したのもその時だ。
 この会社で扱っているゼリージュースは、見た目こそ宝石を溶かしたような美麗な輝きを放っているが、信じられないような魔術的な力を秘めた液体だ。たとえば他の人物に変身したり、他の人物の体を乗っ取ったり、他の人物と入り替わったり、さまざまな奇怪現象を起こさせる魔法の飲み物。それがこの会社がで扱っているゼリージュースだった。
 そんな奇妙なゼリージュースが、俺の目の前に並んでいる。まあ、こうしてガラスケースに置いてあるだけならば、なんの害もない。問題なのは、出社時にこの中から一本を選んで飲まなければならないというこの会社の規則だった。これが、さきほど言った、この会社のとんでもない問題点だった。
 俺だって入社して一年も経つ。商品として扱っているゼリージュースなら、どれがどのような効果があるかくらいは分かる。けれどもここに置いてあるのは、社員である俺でさえ見たこともないゼリージュースばかりだ。それもそのはず。そのほとんどは、隣に建っている研究棟で作られた試作品だ。ビンには番号が振られているだけで、どんな効果があるかはまでは知らされていない。社員の中で唯一知っているのは、このゼリージュースを開発している有部だけだ。むろん、どんな効果があるのか漏らすことは許されていない。それに彼の、人を変身させて、その姿や行動を観察するのが何よりも好きという性格から、問われても答えないだろう。未知のゼリージュースを飲まされ、その効果に驚き戸惑う様子を見てほくそ笑むという楽しみを、彼が自ら放棄するはずがない。また、ガラスケースの中には、まれに変わったビンが紛れ込んでいるが、それは他から回ってきた試作品だ。これは有部でさえ、その効果は知らされてない。
 ちなみに極秘ルートで売られている特殊なゼリージュースは、数時間で効力が切れるように造られている。具体的には排泄をすれば効力は切れる。けれどここに並んだ試作品は、解除薬を飲まなければ変身が解けない。退社するまで一日中変身しっぱなしなのだ。
 一言で言えば、われら社員は試作品で人体実験されているのだ。
 ――と、ここまでは他の社員の話だ。俺は外回りをする営業職なので、例外としてゼリージュースを飲むことを免除されている。当然だ。特殊なゼリージュースの他に、カモフラージュ用のごく普通のゼリージュースの営業もしているのだ。変身した姿で普通のゼリージュースの営業などできるはずがない。そもそも社員は試作品を飲んで変身した姿で社外に出ることは禁止されている。
 だが今日は、週に一度の外回りのない日だった。一日中、本部で過ごすことになる。外回りがないからと言って営業活動がないわけではない。新規開拓の計画を立てたり、顧客情報の書類を整理したり、電話をかけたり、一週間分の仕事が溜まってる。
 そんなふうにゼリージュースの入ったガラスケースを眺めながら考えごとをしていると、俺に向かって女の子の声が響いた。
「九條(きゅうじょう)お兄ちゃん、おはよう!」
 ぼんやりしていた俺は、あわてて声のしたほうに振り向く。
「どうしたの? 背中に芝生が付いているよ」
 いつのまに現れたのか、小学生くらいの小さな女の子が俺の隣に立っていた。腰までまっすぐ伸びる長い黒髪には大きなリボンが飾られ、丸襟の白いブラウスに赤い釣りスカートという姿だった。その手には、ケーキ屋のものらしい、ちょっとシャレた白い紙箱が握られていた。

(つづく)