愛理と純子の『啓太』にまつわる物語

輝晒 正流 作 


     プロローグ

 昔のことだ。
 愛理がネットで面白いものを見つけたと言って純子を誘い、そして愛理が密かに想いを寄せていた純子の幼馴染だった啓太を、どうしてもと言って純子に呼んでもらったのだ。
 そして、三人はそれをやってしまったのだ。
 入れ替わりの魔法を。


     第一章

 一学期の期末試験の最終日。後は終業式の日までは休みだ。
 夏の強い日差しが、街の風景をまぶしく照らしている。
 純子は、待ち合わせの喫茶店で、愛理を待っていた。
 一度、家に帰り、学校のカバンだけは置いてきた。制服のままだ。愛理も制服のままで来ると話していたからだ。
 早めに来ていて、少し退屈していた。髪の毛を束ねていたゴムバンドをはずし、髪先の枝毛を眺めて、再び束ねなおす。
 カバンから小さな鏡を取り出し、自分の顔を眺める。赤いふちのメガネが目立つ。それから、ニキビの数を数えて、時間をつぶす。
 約束の時間を十五分ほど過ぎたころだ。
 純子とは違う制服姿の愛理が、早足で純子の待つ席へやってきた。
 ますます輝きを増したその容姿に、純子でさえドキリとする。
 「ゴメン、待たせてしまって。委員の仕事が遅くなってしまって」
 「ううん、いいの。委員やってるんだ。何の委員?」
 純子は笑顔でそう応えて、尋ね返す。
 「言ってなかったっけ。学級委員長と生徒会副会長。みんなやりたがらなくて。推薦もあったし」
 愛理は言いながら、純子の向かいの席に座った。
 かわいらしい仕草で、スカートを直す。
 その様子を見て、純子は、
 「合格」
 とサインを出した。
 「なんだよ、『合格』って」
 「言葉遣いは、まだまだ不合格。いい加減、ちゃんと女の子らしくしゃべりなさいよ。カレができたとき困るわよ」
 「カレ? 恋人!? そ、そんなの作る気ないよ! それに普段は、ちゃんと女言葉で話すようにしてるよ。愛理の前だけは、啓太に戻りたいんだ」
 上ずった声を発した後、周囲を気にして、声を潜める。
 「冗談だって。わたしが一番あなたのことを理解してるんだから。ところで、それは?」
 愛理がもってきた少し大きめの手提げの紙袋を指して言う。
 足元に置いたその紙袋からは花のようなものが覗いている。
 「これ? 後でね」
 「それに、どこに連れて行ってくれるのかな?」
 「それも行ってから」
 「それ花束でしょ。とすると、ライブとかで男性アイドルの追っかけかな? それとも男の子にプロポーズとか? もう二年もたったもんね。愛理としてすっかり女の子になっちゃったところを、しっかり見届けてあげるわ」
 純子はおどけて、恋する乙女のしぐさを演じた。
 「なに言うんだよ!」
 愛理は恥ずかしくって、少し大きな声で否定した。
 「ボクの心はまだ男なんだから」
 周囲の視線が気になって、今度は小声で言った。

 愛理は二年前まで、啓太という男の子だった。そして純子が元々その愛理だった。
 中学三年の夏休み直前、今の純子である本当の愛理が見つけた裏ネットに掲載されていた入れ替わりの魔法=Aそれを行なってしまったのだ。
 受験受験とうるさく言われ、ストレスが溜まってたのかもしれない。成長期にあった心が異性への好奇心を異常な方向に向かわせてしまったのも原因のひとつだろう。
 男の性というものに興味を持ったとき、タイミングよく見つけてしまった入れ替わりの魔法。試してみないではいられなくなってしまったのだ。
 そして何をするのかは内緒にして、友達の純子と、憧れていた純子の幼馴染の啓太を巻き込んで、その魔法を発動させてしまったのだ。

 今では別々の高校に進学した二人は、冷たいジュースで喉を潤しながら近況の報告をしあう。
 「ボクの家には、変わりはない?」
 愛理は近況報告のとき、いつもこれを一番に訊く。
 啓太の家である稲本家には愛理としては近づきにくく、啓太の幼馴染としての純子に頼るしかなかった。入れ替わりの秘密を知るものはなく、他に近況を聞ける知り合いはいなかったのだ。
 啓太には四歳上の兄と、二歳下の妹がいた。そして両親。
 兄はいじめられた思い出しかなくあまり好きではなかった。大切な両親は、啓太の死でだいぶと老け込んだと聞いている。けして若くもないから健康状態も心配だ。そして妹はブラザーコンプレックスといえるほど、啓太にベッタリだった。啓太も慕ってくれる妹が大好きだったから、一番の心配どころだ。
 「わたしも家の中までは見れないから分からないけど、時々見かける姿は、とっても元気よ。挨拶しても、明るく返事をしてくれるわ」
 純子はそう妹の話をした。
 そして、すぐに次の話題へ変える。
 「そういえば、田中クン。一回戦敗退だったんだって。残念だね」
 田中裕一郎とは、中学のとき一緒に野球部にいた啓太の親友だ。
 「その言い方じゃ、裕一郎がかわいそうだ。野球部が、一回戦敗退≠ネの。あの野球部ではダメだよ。一人ひとりの能力が低いとは思わないけど、うちはどちらかと言うと進学校だから、本気で甲子園目指そうなんてのは少ないと思うよ。甲子園を目指そうっていう雰囲気さえできれば、案外地方大会の上位までいけるとは思うんだけど」
 「愛理がマネージャーでもして、盛り上げてあげれば?」
 「野球部とは、かかわりたくないよ。目の前で野球やってるのを見て我慢だなんて、きっと耐えられないよ。それに、裕一郎も嫌だろ。プライドを傷つけられた相手が近くにいるなんて」
 「そのことは、ゴメンと言うしかないわ。わたしの罪をあなたに背負わせてしまって」
 「でも、そんなヤツが二年連続同じクラスだなんて。あーもう。関係改善して、野球の話なんかしてみたいんだけど。あいつは思い込み激しいから、近づいて気があるなんて思われようもんなら、カノジョにされてしまうし。なんかいい方法はないかな」
 言って愛理は苦笑いをする。
 「ところで、わたしが言うのもなんだけど、結構モテてるでしょ。高校入ってますますキレイになったもの。わたしが言った通りに愛理が女を磨いてくれてるおかげかな」
 「面倒くさいのはもう慣れたよ。おかげで、もうモテモテだよ。週一回はだれかに交際を申し込まれてうんざり。男ってどうしてああも馬鹿なんだろうってホントあきれるよ。ってボクが言うのもおかしいけど。ボクも男のまま高校入ってたら、ああなってたのかな…」
 少しうらやましそうにつぶやいた後の沈黙。
 「ごめん。そんな意味じゃあ。責めてる訳じゃないんだ」
 「分かってる。わたしが一番あなたのことを理解してるって言ったでしょ」
 「ホントにゴメン。でもいい加減、愛理には自分を責めることをやめてほしいんだ」
 「人ひとりを死なせてわたしは、罪の償いをしてないのよ。刑務所に入れられてもいいくらいなのに。でも純子の名誉のためにはそれはできないし、わたしは、わたしだけは幸せになってはいけないの」
 「それは間違ってるよ。だって純子のお母さんは? お父さんは? 親しい友達は? みんな純子の幸せな姿を見たいんだよ。君が償う方法があるとすれば、君が純子として幸せになることだよ。幸せになって、純子は幸せだってみんなにアピールすることだ。そうだろ? 君がそうしてくれないとボクだって吹っ切れないんだ」
 「そんなのムリよ」
 純子の瞳から涙がこぼれた。
 「出よ」
 愛理は立ち上がると、純子の手をとった。
 
 「そういえば、ボクって処女じゃないよね」
 愛理は周りに人がいない瞬間を見計らって、まだ涙ぐんでる純子に不意打ちをかけた。
 「ぇえっ! な、なんで、知ってるのよ」
 認めてしまって、慌てて純子は口を押さえた。
 慌てた純子は、涙もどこかに吹っ飛んで、顔を赤らめる。
 聞いた愛理自身も顔が赤いのを見て、純子は愛理が自分を慰めるための話題だと分かり、そのことはうれしかった。
 しかし、その質問に答えるのは恥ずかしかった。
 「やっぱりボクだって硬派のつもりでも、男だよ。どうぞご自由にって女の体を渡されたら、見たいところは見てしまうよ。アソコってどうなってるのかなとか、処女膜ってどんなのかなって」
 愛理も恥ずかしくてひそひそ声だ。
 「見比べたんだ」
 「そうそう。純子の身体からこの体に入れ替わって、見比べてみたら、それらしいのが切れたようになってたから。その後あの出来事があったから、そんなこと聞くのは不謹慎だと思ってるうちに聞けず仕舞いってこと」
 「ごめんなさい。本当にごめんなさい」
 「なんで謝るんだよ。そのときは愛理の身体だったんだから、だれとセックスしようが愛理の自由じゃないか。そりゃ気になるコが、経験済みだったなんて、ちょっとショックだったけど、謝るほどのことじゃないよ。でもうらやましいな。こんな美少女とエッチができた奴って。一体誰なんだ?」
 笑いながら愛理が言う。
 「ごめんなさい。実は相手は啓太君なの」
 純子は、恥ずかしそうに、申し訳なさそうに、小声でつぶやく。
 「えっ」
 思わず大きな声が出る愛理。
 「ボ、ボクはそんなことしてないって。童貞だって。キスだってしたことないんだからな…」
 言ってからある思いに至る。
 「純子が愛理で、愛理がボクのときに、やったんだ」
 愛理の言葉に、純子は頷いた。
 「啓太君の全てを知りたかったから。そのときわたしになってた純子に頼んで… 啓太君のことが好きだったから、入れ替われるって知ったとき、全部知りたいって思ったの。啓太君になって体を動かしたらどんな風な感じかなとか、ケーキを食べたらどんな味に感じるんだろうとか、エッチのときは何処が感じるのかなとか。ホントにごめんなさい」
 「気にしてないって言えば、ウソ五十%ってところだけど。むしろうれしいな。学年一の美少女に好きって思ってもらえるなんて」
 「今はあなたがその美少女よ。でも、もうひとつ謝らせて。ごめんなさい。啓太君の体もう一回セックスしてるの」
 「えっ! だれと」
 愛理は元啓太としてこの入れ替わりの部外者とセックスしていて、自分のイメージが損なわれているのではないかと心配した。
 「わたしと…」
 「……」
 「二回目の入れ替わりの後、啓太君になってた純子に抱いてもらったの」
 「……」
 「ホントにごめんなさい」
 「……」
 「やっぱり、怒るよね。軽蔑するよね。本人のいないところで乱交してたんだもんね。異常だと自分でも思ったよ」
 「怒らないよ。ちょっとショックだけど。ボクのホントの身体も、この身体も経験済みなのに、ボクは未経験なんて不公平だと思うけどさ… もういいよ。この身体で生きていくって決めたんだからさ」
 拗ねたような仕草をした後、愛理は笑顔を見せる。
 「ホントゴメン。でも、ああ、なんかすっきりした。ありがとう。隠していた胸のつっかえが取れて。ホントありがとう。あ、信号変わっちゃう。急ご」
 純子は笑顔で、駆け出した。
 「待ってよ」
 愛理も少し遅れて駆け出す。
 そして、それは起きた。


     第二章

 純子は背後に急ブレーキの音を聞いた。
 そして、ドンという、嫌な音が続いた。
 振り返り愛理のいるはずの視界の領域に、点滅する歩行者信号の最後の青色が消えて、赤色に変わるのが見えた。
 まるで血の色だ。
 アスファルトの上に視線を落とすと、ピクリとも動かない愛理が倒れていた。
 「いやーっ!」
 頭の周りには、ゆっくりと広がっていくものが見えた。
 「いやーっ、いやっ、いやっ、いやぁぁぁぁーっ!」
 半狂乱状態だった。
 どうしたらいいのか、分からず純子は泣き叫ぶだけだった。
 周囲に人だかりができる。
 携帯電話で救急車を呼んでくれている声が聞こえる。
 愛理に駆け寄り、ハンカチで傷口を押さえ止血をしてくれている人がいる。
 運転手を捕まえている男たち。
 サイレンが聞こえる。
 呆然と立ち尽くす純子の前に、救急隊が到着した。
 止血をしていた人から、救急隊が応急処置を引き継いだ。
 「君、この子の友達?」
 救急隊のひとりが、純子に声をかける。
 声がでない純子は、うなずいた。
 「他に連れはいるの?」
 首を横に振る。
 「じゃあ一緒に来て」
 いつの間にか担架に載せられた愛理が救急車へと運ばれる。
 それに続いて、純子と残りの隊員が乗り込みドアが閉じられる。
 「この子の名前は?」
 「双海愛理」
 続けて連絡先などを聞かれる。
 走り出した救急車の中で純子は、意識のない愛理の体をゆすろうとして、救急隊員に止められた。
 「ゆすっちゃだめだ。頭を打ってるから」
 純子は両手を膝の上で握り締めた。
 「助かりますよね?」
 震える声で尋ねる。
 「精密検査が必要だけど、今のところ瞳孔に異常はないし、呼吸もしてるから、脳震盪だけだと思う。それだったら大丈夫だ」
 そうじゃなかったら? だって血がいっぱい出てた。今だって意識がないじゃない。本当に大丈夫なの? ネガティブなイメージが純子の思考を埋め尽くす。
 自分が点滅信号に駆け出さなかったらこんなことにならなかったのに。
 また自分のせいで人が死ぬ。
 今度は自分の体が消えてしまう。
 ひとりになってしまう。
 恐ろしい考えが純子の頭の中を渦巻いた。

 サイレンが止んだ。
 病院に到着したようだ。
 ドアが開き、愛理が運ばれる。
 それを追いかけて、純子も走った。
 手術室の前で看護師に「ここで待ってください」と止められ、純子は立ち尽くした。
 どうすればいい?
 なにができる?
 少しは落ち着きを取り戻して、それを考えた。
 「そうだ。家族に連絡……」
 携帯電話を取り出し病院内だと気付いて電源を切った。
 そして病院内の階段付近にある公衆電話に硬貨を入れ、かつての自分の家に電話をしようとして、ダイヤルする指がためらった。
 「なんて言えばいい? ちゃんと言える?」
 元の家族に元の自分が重体だって、伝えられる?
 でも、しなくちゃ。やらなければ、それが自分の責任だ。罪を犯した自分の責任。
 純子はまだ覚えている番号へダイヤルをした。

 手術室の前の長いすに座り、純子は祈っていた。
 命が助かりますように。
 もし愛理の体が助からないのなら、自分が死んでこの体に啓太の魂が生き続けますように。
 祈れることは何でも祈った。
 そうして、ずっと目を瞑っていた。
 随分と時間が過ぎたような気がした。
 声を掛けられて、目を開ける。
 時計を見たら、長いすに座ってからまだ数分しかたっていないことが分かる。
 声を掛けてきた相手は警察だった。事故の様子を聞きにきたのだ。
 「わたしが、点滅信号を渡ったんです。それで彼女が、愛理が後に続いたんです。わたしが点滅信号なんて渡らなければ、こんなことにはならなかったんです。全部わたしのせいなんです」
 「点滅信号を渡るのはあまりよくないことだが、それは事故の直接の原因ではない。いいかい、自分を責めてはだめだよ。確認したいのは事故がおきたとき、信号はどういう状態だったかだ」
 「事故が起きた後、振り返ったとき、点滅から赤に変わるのが見えました。だから事故のときはまだ点滅信号だったんです。振り返った正面に信号が見えたから間違いありません」
 その他にも、いくつか状況を尋ねられた。
 それが終わったとき、愛理の母親が駆けつけた。
 「……」
 お母さんといいかけて、純子は口を噤んだ。純子としては愛理の母親とは面識がないのだ。
 「愛理は? 愛理は助かるんですか?」
 「愛理さんのお母さんで?」
 警察手帳を見せて尋ねる。
 母親はうなずいて応えた。
 「今はまだ処置中のようです。車にはねられたというよりは、ぶつかった拍子に転倒して、頭を打ったというほうが正確です。救急隊の話では、頭部に出血はあるものの、神経の反射には問題がなかったということですから」
 母親は少しは安心したようだ。
 「あなたが、純子さん。ありがとう連絡をしてくれて」
 「お礼を言われることは何もしてません。できませんでした。ただ呆然と救急車が来るのを待ってただけで」
 「仕方がないわ、突然目の前で事故が起きたら誰だってそうなるわ」
 そのとき、手術中を示す赤いランプが消えた。
 「あっ」
 誰ともなしに声が漏れる。
 少しして、手術着を着た医者が出てきた。
 「愛理は助かりますか?」
 「命に危険はありません。脳内の出血はないので、おそらく後遺症もないでしょう。ただ強い脳震盪を受けてるので、精密検査をしてみないと分かりませんが」
 医者の後ろから、頭に包帯を巻かれ点滴を打たれている愛理が眠ったまま、運び出されてきた。
 そのまま、集中治療室へと運ばれる。
 純子と母親は、愛理が集中治療室へ運ばれるのに付き添う。
 集中治療室に運ばれた愛理には、いろいろな機械が接続されていく。
 純子は、その様子を部屋の外から眺めていた。
 そこへ、仕事を抜けだしてきたのだろう、愛理の父親がやってきた。
 服装は乱れ、息が上がっている。表情は、泣き出しそうなほどにゆがんでいる。
 「あ、愛理の様子は?」
 純子は、愛理だった時、自分をこんなに心配してくれる父親を見たことがなかった。いつもそっけない態度で自分に関心がない。そう感じているうちに、父親のことが嫌いになっていた。しかし、それは昔のことだ。
 母親の話をきいて、父親は少し安心し、落ち着きを取り戻したようだ。
 母親自身も、夫がそばにいることで、安心感が増したようだ。
 処置を終えた医師が、説明のために出てきた。
 母親はそこで、思い出したように純子に向き直った。
 「あなたはもう帰って、あなたのご両親も心配してるでしょう」
 自分の本当の母親に言われるのは、疎外感を感じるのは仕方ないことだとしても、ヘンな気持ちだった。
 命の無事を聞き少しは安心したが、目を覚ます愛理を見るまでは心配は消えない。
 「目を覚ますまでは残ります」
 純子は訴えた。
 「麻酔が効いてるから、少なくとも深夜までは目は覚めないよ」
 医者が告げる。
 もちろんそんな遅くまで、家族でもないのに付き添えるわけはない。
 「分かりました。明日の朝また来ます」
 仕方なく、純子は病院を後にした。
 その夜は、純子にとって眠れない不安な夜となった。


     第三章

 朝まだ早い時間から、純子は病院を訪れた。面会時間前だったが、無理を言って入れてもらった。
 愛理は容態が落ち着いていることもあり、昨日の深夜に集中治療室から、一般の病室に移されていた。年頃の女の子ということもあり、個室だった。
 病室では昨日の服装のままの母親が愛理に寄り添っていた。父親の姿はない。仕事なのだろう。
 「おはようございます」
 「あ、来てくれたのね。ありがとう」
 疲れた表情で、純子を振り返った。
 「ひょっとして寝てないんじゃないんですか?」
 「いいえ、少しは寝たんだけど、すぐ目が覚めてしまって」
 純子と同じだ。
 「もしよろしかったら、わたしが愛理のことを見てますから、一度お家に戻られて、休まれては? それに入院の準備とかも必要でしょ?」
 少し考えて、母親はその提案を受け入れたようだ。
 「分かったわ。お言葉に甘えて、お願いしようかしら。やさしい娘がもう一人できたみたいでうれしいわ」
 ホントにうれしそうに、優しい笑顔を見せた。
 しかし、純子はやさしい娘がもう一人≠ニいう言葉が心に留まった。
 愛理は、一人っ子だ。
 純子は元愛理という点では、娘といえなくもない。
 だが、純子が愛理だったころ、今の愛理のように優しい娘ではなかった。
 やさしい娘がもう一人≠ニ喜んでくれるのは、今の愛理が優しい娘≠してくれているからなのだろう。うれしかった。
 「じゃあ少しの間、お願いね」
 母親はそう言って、病室を後にした。
 
 純子は眠っている愛理の手を取り、両手で包み込んだ。
 自分の手より少しひんやりとしているのを、純子は感じた。
 どれくらいそうしてただろうか。
 愛理の手のひんやり感がなくなっていた。
 「うっ、うぅっ」
 愛理が呻いた。
 「あっ! 愛理。愛理。分かる?」
 「うっ…… はぁ……」
 ため息のような息が漏れた後、愛理は目を覚ました。
 「良かったぁ」
 うれしさのあまり、純子は涙がこぼれた。
 「純子…… ボク、どうしたんだ?」
 上体を起こそうとした愛理を、純子は制した。
 「動いちゃだめ。事故にあったのよ。頭を強く打ってるんだから、安静にするの」
 「そうなんだ…… なぁ、純子…… あー、あー。ボク声がおかしくないか? まるで女みたいだ」
 「えっ! 今なんて?」
 「だから、声が女みたいだ」
 「わたしのこと、わかる?」
 「純子。幼馴染の。でもちょっと大人っぽくなった?」
 「ホントに…… 心配してたのよ。こんなときに冗談は言わないでよ」
 しばらくの間、愛理は純子の顔を見つめた。
 「純子じゃないのか? それになんか手も自分の手じゃないみたいだ」
 顔の前に手をかざして愛理が言った。
 その手は掛け布団の上に下ろされた。
 胸の上だ。
 「何かあるみたいだ……」
 純子は混乱して、どうしていいのか分からず、見ているだけだった。
 愛理は掛け布団を少しめくりあげる。
 寝間着の左右の重ね合わせの間に、きっと谷間が見えているはずだ。
 「おい! 純子、これは一体どういうことなんだよ。胸が膨らんでるよ。声もだし、ボク、女にされたのか?」
 一気に上体を飛び起こして、純子に詰め寄る。
 「ホ、ホントに覚えてないの?」
 「なんだよ、ボクに何があったんだ?」
 「啓太君は、二年前の出来事で体が入れ替わって、双海愛理になったのよ」
 「双海さんに? 二年前……」
 純子はカバンから小さな鏡を取り出し、愛理に見せた。
 愛理は自分の顔が、啓太ではないのを確認する。その顔が記憶にある二年前の双海愛理とは雰囲気が少し違うことを感じながらも、双海愛理の顔であることを確認していた。
 「ホントだ。でもどうして。こんなことありえないよ」
 「ありえなくても、実際に愛理になってるじゃない」
 「そうだけど…… 戻れないのか?」
 「戻れないのよ。もう」
 「じゃあ、双海さんは、大丈夫なの? ボクになってるんだろ?」
 こんなときなのに、愛理は、本当の愛理のことを心配する。
 「それは…… 愛理は元気よ」
 自分が愛理だとは言えなかった。言うとややこしくなる。ホントとの純子が死んだことまで話さなければならなくなる。
 「話せば長くなるし、今の状態の啓太君では話せないわ。落ち着いてから詳しく話すから。だから、そうねぇ、それまでは双海愛理として記憶喪失のフリをしていて。間違っても、自分が啓太君だとか、男だとかは言わないでね。何も覚えていない。自分が誰かも分からない。いい? 入れ替わっていることを知っているのはわたしだけなんだから、絶対誰にも言っちゃダメよ。それからあなたは女なんだから、ボク≠チて言わず、わたし≠チて言って。お願い」
 「わ、わたしって…… そんな言葉使えるか」
 「頼むから。わたしを信じて。だから言ってみて」
 「わ、わ、わ、わた、わたし」
 言えと言われて言うのは、すごく抵抗のある言葉だ。愛理は顔がほてるのを感じた。
 「じゃぁ先生呼んでくるから。入れ替わったなんて信じるわけないし、おかしいと思われたら困ったことになるんだから。記憶喪失のフリをするのよ」
 「お、おい。ちょっと待てよ」
 愛理の制止もかまわず、純子は出て行く。
 ひとり病室に残された愛理は、上体を起こし改めて自分の体を確認した。
 「あー、あー、わ・た・し……」
 もう一度声を出してみる。
 聞きなれない女の子の声だ。
 両手の平を何度もひっくり返し、確かめる。
 ひ弱できれいな女の子の手だ。
 その手を寝間着の上から胸に当てる。柔らかな感覚が手から伝わる。同時に胸から、感じた記憶のない触られたという感覚が伝わる。
 何らかの細工で付けられた胸じゃない本物の胸だ。
 明らかに自分は女になっている。
 後は股間を確認するだけだが、調べなくてもこれまでの状況から、ついてないのは明らかだ。今は触るのが怖かった。
 少しして、純子が主治医の井上先生を連れてきた。
 「痛いところや、苦しいところはない?」
 「頭が痛いです」
 「十針も縫ったからね。そろそろ麻酔も切れるころだろうから、後で痛み止めを処方するよ。他には?」
 「特にないです」
 井上先生は聴診器を耳に入れる。
 「胸を出して」
 「えっ!」
 恥ずかしかった。男である自分の胸に膨らみがあり、それを知らない人に見せろといわれてる。愛理はそのことがとても恥ずかしかった。
 しかし、周囲からは思春期の女の子が胸を見せるのをはずかしがってるようにしか見えない。
 「わたしは医者だから」
 抵抗しても仕方がない。愛理は恥ずかしがりながら、ゆっくりした動作で寝間着の胸を開いた。
 井上先生は聴診器を胸に当て、脈や呼吸を診る。
 「まぶしいけど我慢して」
 今度はライトペンを取り出し、愛理の瞳を照らす。
 「両手を出して。触ってるの分かる? 右手を上げて。左手を上げて。右ひざ曲げて、伸ばして、左ひざ曲げて、伸ばして」
 医者の言うように愛理は体を動かした。
 「問題ないようだね」
 「問題あります!」
 医者の言葉に異を唱えたのは純子だ。
 「あ、あの、愛理は自分のことがわからないみたいなんです」
 「えっ、本当に?」
 「そ、そうみたいで」
 愛想笑いで、愛理は応えた。
 「自分の名前は?」
 「愛理……って聞きました」
 「それは、自分の名前だと分かった?」
 「いいえ、実感ないです」
 「年齢は?」
 「十四歳かな」
 それは二年前の啓太の年齢だ。愛理は今十七歳だ。
 「うん……」
 井上先生は少し考える。
 ばれる? 純子はそう思った。
 「最近したことで覚えてることは?」
 「えーと、えー……わかりません」
 医者の後ろにいる純子に目をやったら、首を激しく横に振っていたのでそう答えた。
 「まずは精神科の受診を手配しよう。それと精密検査も繰上げでしてもらえるよう頼んでみよう。とにかく安静にしてるんだよ」
 医者はそういうと、病室を出て行った。
 純子はひとまず胸をなでおろした。
 「なんで年齢答えるのよ」
 「だって年齢くらいいいかなって」
 「これじゃ、二年前に何かあったって思われるじゃない」
 「二年前?」
 「さっき言ったでしょ。二年前あなたはある出来事で愛理になったって。そして、二年間愛理として暮らしてたの。もうすっかり女の子の暮らしに慣れたって感じになってたわ」
 「ボクが、女の子らしくなったって? うぇ、気持ち悪ぅ」
 「でももう戻れないんだから」
 「いや、絶対に戻る」
 「啓太君には戻れないんだって」
 「なんで? さっき詳しく話すって言ったじゃないか」
 「身体が治ってからよ。それまで記憶喪失のフリをするのよ。もう少ししたらお母さんが戻ってくるんだし」
 「ボクの?」
 「愛理のよ。ちゃんとごまかしてよ。啓太君だとはばれないと思うけど、男みたいと思われても困るんだから」
 「なぁ、どうしてボクのこと君&tけで呼ぶんだ?」
 「えっ」
 純子と啓太は幼馴染。互いに呼び捨てで呼び合っていた。そのことは知ってはいたが、純子はそこまで気が回っていなかった。
 「そういう関係になったからよ。知りたかったら、ばれないように記憶喪失のフリをして、早くケガを直すのよ」
 純子はそれから少しの間考えて、思い出したように突然言った。
 「おしっこは女子トイレで座ってして、紙で拭くって、わかってる?」
 「な、な、な、なんだよぉ。急に」
 女の子のトイレの話に、愛理は顔を赤らめる。言った純子も恥ずかしさに耐えている。
 「こういう話は二人きりのときでないとできないでしょ。わたしはずっとはついてられないのよ。一緒にいるときでも人がいたら話せないことだってあるんだし、問題は自分で対処するの。まず一番最初に問題になるのがトイレでしょ。二年前はお漏らし直前まで我慢してたんだから、あなたは。次がお風呂とか着替え。その体はもうあなたのもの、自由に見ても触ってもいいの、誰に気兼ねしなくても。ただずっとあなたのものなんだから、将来女の子として困るようなことはしちゃだめよ。他に質問は?」
 「わからないよ……」
 女の子のトイレ、お風呂、着替えと、男の子としては妄想してしまうようなことに、愛理はただ恥ずかしくてうつむいて答えた。
 しばらくして女性の看護師が、検温と鎮痛剤の投薬にやってきた。
 その処置が終わったころ、愛理の母親が戻ってきた。
 「意識が戻ったのね。よかった」
 入り口に立った母親が、目を覚ましている愛理を見て、喜びの声を上げた。
 駆け寄ろうとしたときだった。
 その喜びは、にわかに悲劇に変わる。
 「誰?」
 「えっ!」
 愛理の言葉に、母親の足が止まる。
 「愛理。記憶がないんです」
 「そんな…… 愛理、母さんが分からないの?」
 ゆっくりと、ふらつく足取りで、母親は愛理へ向かって歩んだ。
 「わからない」
 そう応えた愛理を、母親は抱きしめる。
 「かわいそうに……」
 「く、くるしい。やめてくれよ。おばさん」
 慣れない香水のにおいを強く吸い込んだせいもあって、愛理は母親を思いきり突き放した。
 「そんな言葉遣いなんて…… まるで、二年前みたい」
 母親は床に崩れて涙をこぼした。
 純子は二年前の入れ替わりの前の自分を思い出した。
 親の存在がうざったく、いつも乱暴な態度で接していた。まるで今の愛理のように。
 「大丈夫ですか?」
 純子は母親に手を差し伸べる。しかし、ショックのあまり立てないようだった。
 「最近は優しい女の子になってくれてたんだけど、まるで中学生のときのよう」
 やさしい理想の娘となった愛理が、記憶喪失で再び乱暴な性格になってしまったなんて、かなりの心痛に違いない。
 「中学生?」
 今の愛理が覚えている範囲では中学三年の夏休み直前までは、自分は啓太だった。母親が言った中学生の時の愛理とは、入れ替わる前のことなのかと、入れ替わる前も愛理は男みたいに荒れた性格だったのかと不思議に思った。
 「中学のときあなたのお友達が亡くなって、そのとき以来、人が変わったようにやさしくなってくれたのに。またこんなことになるなんて」
 優しくなったのが自分のことだとは思わず、愛理は聞き流していた。
 純子は、死んだのが啓太だという話が出ないか心配したが、幸い話がそこまで及ぶこともなかったし、愛理が追求することもなかった。
 ぎこちない空気の中、愛理の母親は入院中に使う愛理の身の回り品を整理していく。
 愛理は所在なげにベッドの上でじっとしている。
 純子は、今日のところは帰ることにした。母親がいるのにこれ以上身内のようにずっと付き添ってるわけにもいかないだろうと思ったからだ。
 「わたしのケータイと家の番号渡しておくから、何かあったら、すぐに必ず連絡するのよ。それから、お母さんには優しくしてね。お父さんにも」
 純子は小声で愛理に告げてメモを渡した。
 愛理はうなずくだけで、黙っていた。
 「それじゃ、わたし今日は帰ります。また時々来ます」
 純子は母親に言うと、心残りでたまらなかったが病室を後にした。
 エレベーターに乗り込むと、急に涙があふれてきた。
 止まらなかった。
 もしすぐにでも記憶が戻らなければ、二年前の出来事で自分の本当の身体と本当の純子を失ったそのことを、話さなければならない。その苦しみをもう一度、愛理は受けなければならない。
 そしてそんな残酷な宣告を自分がしなければならない。
 二年前自分が誘わなければと思うと、申し訳なくて、自分が許せなくてたまらなかった。
 
 その日の午後、愛理は急遽精密検査を受けることとなった。
 精神科の専門医の診断には、「分からない」を連発して、記憶喪失の診断を無事ゲットした。
 その後、MRIの検査を受ける。
 「痛くもなんともないから怖がらなくていいよ」
 緊張している愛理を見て、MRIの技師が声を掛ける。
 かなりの時間をかけて、頭部の精密な断層写真を撮った
 「お疲れ様」
 やさしく声を掛ける技師に、愛理は涙目になっていた。
 「あ、あの、頭痛いです」
 その愛理の一言で、その場は騒然となった。
 痛くなるはずのないMRIで、かわいい少女が涙を浮かべて痛いと訴えたから、みんな慌ててしまったのだ。
 実際はただ、鎮痛剤が切れてきたところで、検査技師に「動かないで」って言われたため、検査の間中、ずっと痛いのを堪えていたのだ。
 我慢するのは啓太の性格だったが、愛理の体が痛さに耐え切れず涙を流してしまったのだ。
 愛理は鎮痛剤を再び処方してもらった。


     第四章

 翌日も純子は面会時間の最初から、病院へとやってきた。
 すでに母親も来ていて、ベッドの横のいすに腰掛けている。昨日と服が違うので、昨夜は帰ったのだろう。
 何をするわけでもなく、会話もない。ただ静かに座っているだけだ。空気が重い。
 「愛理のお母さん。テレビ置いてもらったらどうですか。そのほうが愛理も気がまぎれたりとか、テレビの話題をきっかけに記憶戻ることもあるんじゃありません?」
 「そうね。すぐにお医者様に相談してみるわ」
 重たい空気の重圧から逃れる方法に母親はすぐに飛びついて、早速手配に出て行った。
 「愛理。痛みはだいぶマシになった?」
 「まだ痛い。それに医者が鎮痛剤の量を減らしたんだ」
 「そのほうがいいとお医者さんが判断したからでしょ。痛み止めにいつまでも頼ってるのは良くないとか。体に悪いとか。ところで、トイレはちゃんとできた?」
 「ト、トイレ……」
 顔を赤らめる。
 「何かあったの?」
 「それが…… やっぱり言えない」
 「言いなさいよ。ちゃんとしたアドバイスがほしいならね。どんなことでも、怒ったりしないし、ちゃんと教えてあげるから」
 純子に促されて、愛理は躊躇いがちに話し始めた。
 「トイレに入ったけど、恥ずかしくて、なかなかできなくて、それに力の入れ具合みたいなのもわからなかったから、すっごく時間かかって、看護婦さんに探されたんだ。詳しくは知らないけど、病院中探し回られたみたいで…… それでトイレで座ってるところを、見つけてもらったんだ」
 「最後のつながりが変な気がするけど…… 自分で出たんじゃないの?」
 「それが、その。拭いてるうちに変な気持ちになって、それで、ちょっと触って遊んじゃったんだ。それで遊びつかれたところを、見つけてもらったんだ。気分悪くなったってごまかしたけど……」
 「イッたの? 最後までイッたのね!」
 「さっきは怒らないって言ったじゃないか…… 顔怖いよ」
 「ゴ、ゴメン」
 「こっちこそゴメン。軽蔑するよな。硬派気取ってたのに、女になったとたんこれじゃ。あ、このこと、双海さんには絶対内緒にしてくれよ」
 もう聞いちゃったよ。と純子は思う。
 「もちろん、もうあなたの身体だから、やってもいいのよ。急に異性の体になれば、好奇心が沸いていろんなことをやりたくなるのは良くわかるわ。ホントの愛理だって、啓太君の体で好き勝手やったんだから。でも、あなたは今ケガ人なのよ。体力だって弱ってるのに。そんなことして何かあったらどうするの?」
 「これからは気をつけるよ。ところでさ、なんでその双海さんは会いに来てくれないんだ。ボクになってるんだろ?」
 純子は言葉に詰まる。けど今は誤魔化さなければならない。
 「会いにこれない理由があるのよ」
 「なんだよそれ」
 そういったが愛理はそれ以上追求しない。純子は胸を撫で下ろす。
 「ほかに困ったことはなかった?」
 「病院のご飯はおいしくない」
 「それって、女の子になって困ったことじゃないじゃない。まぁいいわ、後で何か差し入れしてあげる」
 純子は笑顔で言った。

 テレビが病室に届くのを待って、純子は一度病院を後にした。何か差し入れを買いにいくためだ。
 愛理は早速テレビを見ている。手持ち無沙汰は解決するだろうが、母と娘の会話は、この様子じゃ期待できないなと感じた。
 病院から十分ほど歩いたところにスーパーがあったので純子はそこに入った。
 菓子パンとかケーキとかも考えたが満腹でご飯が食べれなくなっても困るなと思い、イチゴをひとパックだけにした。
 病院に帰ると純子の知らない男性が二人来ていた。
 病室の前で対応する。
 「あぁ、純子さん、待ってたのよ。こちら、警察の方」
 愛理の母親が、二人をそう紹介した。
 「お待ちしてました。見てほしいものがありまして」
 「わたしで、いいんですか?」
 「もちろん、本来は愛理さんに、見ていただきたかったんですが。記憶喪失とうかがったので」
 「そ、そうなんです」
 「それで、事故のとき一緒にいたあなたなら、わかるかと思いまして」
 交通課の刑事は、大きな紙袋からいくつかのものを取り出した。
 「事故現場に落ちていたものが、愛理さんのものかを確認していただきたくて」
 「あ、それ、愛理のケータイ!」
 「それは良かった。暗証番号がかかってたので、確認がとれなかったもので」
 受け取ったケータイは、電源は入るものの、外側にも画面にもひびが入っていた。そのとき説明を受けなかったが、受信機能も壊れていた。
 「それとカバンには、持ち主を確認できるものがなかったので」
 「わたしも、この子の持ち物を全部知ってるわけじゃないから、わからなくて」
 母親が言う。
 「それも愛理のですけど、財布は入ってなかったですか?」
 「入ってなかったというか、別に落ちていたよ。きっと事故のとき落ちたんでしょう。それはお母さんに確認取って、もう渡してあります」
 大きな袋から最後に出たのが、手提げの紙袋だ。
 「それも愛理が持ってました」
 純子は受け取った紙袋の中を見た。
 「これ、愛理には見せましたか?」
 「ケータイ以外は見せてないよ。ケータイを覚えてないくらいだから、ほかのもわからないだろうと思って」
 「お母さんも、これの話は今はしないであげてください。誰のお墓参りに行くつもりだったかを知ると……思い出すと、きっととっても悲しむから」
 二度、悲しむ…… いや正しくは苦しむだろう。
 「これ、わたしがもらっていいですか?」
 「ええ」
 母親が了承する。
 純子は折れた線香とろうそくと萎れかけた花束が入った紙袋を受け取った。

 純子は病院の帰り道、電車で二駅のところにある稲本家の菩提寺に来ていた。啓太の墓がある。
 葬式のときも、翌年の一周忌も、純子は幼馴染として、この墓地に参っていた。
 去年の法事の後、みんなで参ったとき、墓の前に置かれていた花束。
 「あれは愛理だったんだ。家族よりも先に、墓参りを…… 違う、事故の日もそうだ。入れ替わった日に来てたのよ。啓太君にとっては入れ替わった日が、自分の命日だったのね」
 純子は啓太が買った萎れた花束を、墓前に供えた。
 そして、自分の買った花を添える。
 ロウソクと線香をあげて、手を合わした。
 「純子。ごめんね。今年はわたしで。……でもどうして今年はわたしを誘ったのかな……」
 教えてくれなかったから理由は分からない。でも、吹っ切りたいと言っていた。
 「わたしから見ればとっくに愛理は吹っ切れてるように見えるのに……」
 そして気がついた。
 「そっか吹っ切れてないのは、わたしだから。それで誘ってくれたんだ。でも、無理だよ。わたしの罪は消えないもの」
 もう一度、純子は手を合わせた。
 

     第五章

 次の日はさくらんぼを買って、純子は病院を訪れた。昼からのことだ。
 愛理はテレビを見ていた。
 母親はいなかった。
 「今日、お母さんは?」
 「今日は家の用事するから、遅くなるって」
 「そうなんだ。何かしてほしいことはない?」
 純子が尋ねると、愛理は首を傾げてしばらく考える。
 「いいよ別に。自由に動けるし」
 「体拭いてあげようか。お風呂まだ入れないんでしょ?」
 「えっ、い、いいよ」
 といってるにもかかわらず、純子はドアを閉めて、カーテンを降ろす。
 「言っちゃ悪いけど、ちょっと臭いよ。やっぱ、女の子の体だから最低限のことはしないと」
 「ホントにいいって」
 「お願い。やらせてほしいの。今は覚えてないでしょうけど、わたしはあなたにいっぱい謝らなければならないことがあるの。お詫びのひとつとして、体を拭かせてほしいの」
 「何だよ、謝らなければならないことって?」
 「ケガが治ったら話すから」
 純子はタオルを絞る。
 「テキトーふかしてるんじゃないだろうな」
 「さぁ、脱いで」
 純子は愛理のパジャマを脱がしにかかる。
 「やっぱ、いいよ」
 脱がされそうになるパジャマを、愛理は押さえた。
 「もう、男らしくなさい!」
 純子は無理やりパジャマを脱がせた。下着も無理やり剥ぎ取った。
 右の腰辺りに、車がぶつかった後が、青紫色になって残っているのが見える。
 「かわいそう」
 純子がつぶやく。
 「触らないで。まだ痛いから」
 純子はうなずいて、まず首筋から背中にかけて拭き始める。
 「どう、気持ちいい?」
 「う、うん」
 「じゃぁ、次は前ね」
 「前は自分で拭けるよ」
 「ついでだから。さぁ」
 「見るなよ」
 愛理は胸を隠す。
 「女の子同士で隠さなくても」
 「ボクにこんなのついてるのを見られるのが、恥ずかしいんだって」
 「こんなの、言うな! それにしても大きくなったわね。やっぱ成長期だもんね」
 しげしげと純子は愛理の胸を見つめる。
 「見るなって言ってるだろ。拭かせてやってるんだから、とっとと拭けよ」
 「はいはい」
 胸を拭いた後、腕を上げさせて、純子は見た。
 「ぁあ ワキ剃ってない」
 「えっ ホントだ。はえてる。女ってワキ毛、はえるんだ!」
 「当たり前じゃないの。毎日剃るか、永久脱毛するかしないといけないのよ」
 「女って、はえないのかと思ってた…… 大変なんだ」
 「そんなこと他の人には言わないでよ。男の子ってバレちゃうと大変なことになるんだから」
 「わかったよ」
 「深刻さが足りないな。顔笑ってるわよ」
 「だってくすぐったいんだから…… そんなふうに触るなよ…… 」
 「じゃあこうしてやる」
 純子は自分の身体だったからこそ分かる、ツボ≠突っついた。
 「にゃっ! な、何するんだよ」
 顔を真っ赤にして、愛理は抗議する。
 しかし、純子は愛理に抱きついた。
 「うれしいの。生きててくれて。あの時死んでしまったと思って、怖かったの。とっても恐かった。たとえ、このまま記憶が戻らなくても、構わない。二年前と同じように、もう一度女の子を始めればいいんだから」
 「……寒いからパジャマ着ていい?」
 愛理は、そんな純子を突き放すこともできず、そう言った。
 「ごめんなさい。あと少し拭いてしまうから」
 残りのところを純子は優しく拭いた。
 そして、下着を着て、パジャマに袖を通そうとしたときだった。
 病室のドアが勢いよく開けられた。
 「愛理ぃ、ケガ大丈夫 ……」
 「だめじゃない。里穂。病院なんだから静かにしないと。……あらぁ、お邪魔だったかしら」
 パジャマのボタンを止めようとして、下着を見せたままになっている愛理を、乱入者の二人は、誤解しようとした。
 「今は、身体を拭いてあげてただけだけど……」
 「なーんだ、いけないことするのかと思った」
 先に飛び込んできた里穂がボソッとつぶやいた。
 「そんなことは……」
 二人は顔を赤くする。
 「わたし、中学の時の同級生の山方純子です。お二人は?」
 「わたしたち、高校の同級生です。わたしは加藤千鶴で、この子は木村里穂です」
 「でも、元気そうでよかった。包帯ぐるぐる巻きでミイラみたいだったらどうしようと思ったもの。それにしても、連絡してくれたらもっと早くお見舞いにきたのに。昨日のお出かけの約束、三十分してもこないから、どうしたのかなって、メールしても返事ないし、ケータイかけても圏外だし、家にかけても誰もでないし。てっきりすっぽかされたと思って、愛理なのに酷いって二人で怒ってしまったよ。で、今朝もぉ一度おうちに掛けてみたら、事故で入院っていうからもぉびっくりしちゃった。連絡もくれないくらいだから、面会謝絶なのかなぁって思ったら、そうじゃないっていうから、もぉ早速いかなくちゃ、って感じで、飛んできたのよ。でさぁ、もう、身体は大丈夫なの?」
 「里穂、包帯巻いてるの見えるでしょう?」
 「頭以外のところよ。車にぶつかったんでしょ。退院したら、いっぱい行くところあるんだから。ミクちゃん喫茶店のバイト始めたって話したよね。そこは見に行かなきゃだめでしょ。他においしいケーキ屋さんも見つけてあるんだし。そうそう、今年はプールじゃなくて海に行くって約束したよね。絶対行くんだから。ということで、デパートに水着買いに行かなきゃだめじゃない。おしゃれな服も買わなくちゃいけないじゃない。ねぇねぇ、退院はいつ? 元気そうだからすぐに退院できるんでしょ?」
 「まだ分からないけど……」
 里穂の勢いにのまれて、応える愛理。
 「でも、きっとすぐに退院できるよ。そうしたら、いっぱい遊ぼうね。来年は受験なんだから。高二の夏は大切なんだから」
 子供っぽく甘えるような感じの里穂に、愛理は言葉が詰まる。
 「……ゴメン」
 愛理は顔を伏せる。
 自分を慕って楽しそうに話しかける彼女のことが分からないことが、申し訳なかった。
 「どうしたの?」
 千鶴が尋ねる。
 「ひょっとして、聞いてないんですか?」
 純子が聞き返した。
 「何を?」
 「愛理、事故のせいで記憶がないんです。自分のことも分からないくらい」
 「そんな……」
 「うそぉ! 愛理ぃ、わたしたちのことも分からないの?」
 里穂の言葉に、愛理はうなずいた。
 「かわいそう……」
 「そんなのないよぉ。大切な高二の夏休みに自分が分からないなんて……グスン」
 里穂は涙ぐんでいる。
 「ゴメン」
 「どうして愛理が謝るの。悪くないのにぃ……」
 里穂が言う。
 「愛理が記憶取り戻すまで、全力で協力するわ。ねぇ、わたしたちになにができるかな」
 千鶴が尋ねる。
 「そうねぇ、高校に入ってからの愛理がどんなだったかを話してあげて。なにか思い出すかもしれないし」
 「えぇ? そんなのいいよ」
 純子の提案に、愛理は嫌そうに言った。
 自分が男だと思ってる愛理にとって、女として過ごしてきた日々を聞かされるのは、恥ずかしいに違いなかった。
 「じゃぁ、まず入学式の時の話からいくね」
 さっき涙ぐんでいた里穂が、もう笑顔になっている。
 「クラス分けの発表見てね。自分の名前がないって困ってたのよ。それを千鶴が見つけて声かけたのよね」
 里穂が千鶴に目配せする。
 「名前聞いてわたしがクラス分け表を見たら、ちゃんと名前あるのよ。でね、なんで名前見つけられなかったか分かる?」
 愛理と純子は首を横に振る。
 「それはね、五十音順に前から見ていって、男子の『ふ』のところまでしか見ないで名前がないって言ってたのよ。テンネン? とか思っちゃった」
 言って千鶴は、ゴメンと愛理に言う。
 「ホント。中学の時はどうしてたのかって、びっくりしちゃったよぉ」
 里穂が、笑いながら言う。
 純子と愛理はその理由が分かるので、妙に納得してしまった。
 「そうかと思えば、結構しっかりしているし、成績もいいし。今年は委員長してるしね。面倒見も良くて、みんなに慕われてるって感じで、非の打ち所がないって感じよね」
 「ふーん」
 と生返事をしたのは、愛理だ。
 「あなたのことでしょ」
 話はつづく。
 ……
 愛理は、覚えていない思い出話を延々と聞かされていた。
 両手で顔を抑えている。指の間から見える顔は真っ赤だ。
 赤裸々な女子≠フ話になって中学生の啓太の心では、耐え切れなかった。
 「でね、いつもかわいくない白の下着しかしてないんだから。まるで子供用なのよ。こんなかわいいのにもったいないじゃん。だから、無理やりデパートの下着売り場に連れてって、選ばせようとしたら、どうしたと思う?」
 「そんな話、もういいよ」
 愛理は今度は耳を塞いでいる。
 「嫌がったんじゃない」
 純子が答える。
 「さすがぁ。中学のときもそうだったの? もう嫌がって、嫌がって、結局試着はさせられなかったのよ。セクシーな下着姿見たかったのに」
 楽しそうに里穂が話す。
 「愛理って本当に不思議なくらい恥ずかしがりやさんよね。体育の着替えなんか、いつもみんなに背中向けて、パパッと着替えてすぐ出て行くし、人の着替え見るのも恥ずかしいって感じだよね。そんな恥ずかしがりやの性格って、記憶なくっても変わってないのね」
 千鶴は、愛理の恥ずかしがる様子にそう話した。純子と愛理は鋭いって感心する。
 そのとき、病室がノックされた。
 母親が立っている。
 「愛理。お友達?」
 「高校の」
 愛理は短く答える。
 「今朝の電話の子かしら?」
 「クラスメイトの加藤と、この子は木村です」
 母親は少し考える。
 「お二人にも一緒に聞いてもらおうかしら」
 母親が病室に入ってきて、続いて精神科の綿里先生が続く。
 「これからの生活についての注意みたいなことを話しておこうと思いまして。とくに一緒に過ごすことの多い、お友達にも聞いてもらっておいたほうがいいこともあるので、聞いてもらっていいかな?」
 医者は愛理に、同意を求めた。
 うなずくのを確認して続ける。
 「退院に関しては、主治医の井上先生が判断しますが、傷がふさがればすぐにでも退院できるでしょう。それで、退院後というか、これから記憶がちゃんと戻るまでの間、いろいろと注意してほしいんだ。
 ひとつは、ひとりで出歩いたりしない。突然精神状態が不安定になることもあるからね。必ず誰かに付き添ってもらうんだ。
 もうひとつは、無理に思い出そうとしない。特にいやなことはね。
 それから、気持ちを楽に持って、今までどおりの生活をすること。同じように生活して、元のリズムが戻ると、記憶が戻りやすくなるからね」
 「わたしたちは、愛理が普段どおりの生活ができるようにサポートしてあげればいいのね」
 「頑張ります!」
 千鶴の言葉に、里穂が合わせる。
 「それって、でも外傷性の記憶喪失じゃなくて、心因性の方ですよね。確か解離性障害。愛理はそっちなんですか?」
 「詳しいね」
 「愛理が記憶喪失と分かって、いろいろ調べたんです」
 純子は答えた。
 「愛理さんの症状は頭部外傷性の逆行性全健忘と思われていたのですが、MRI検査による脳の損傷が見られません。可能性としては心因性の場合もあります。
 意識が戻ったとき、自分の年齢を十四歳と思っていたそうですね。それからお母さんの話では、中学時代は……失礼ですが少々乱暴な性格だったそうで、そういう性格が意識が戻ってから現れていたそうですね」
 「あ、それわたしも感じました」
 千鶴だ。
 「言葉遣いが、愛理らしくなくて、すこし乱暴だなって」
 「そうですか。それから、乱暴な性格が治まったきっかけが二年ほど前のお友達の死亡だそうですね。そういう点を踏まえると、二年前の出来事を忘れたいという思いがあるのかもしれません。日常的にその出来事がストレスとなっていて、事故をきっかけに、お友達の死を忘れようとしたのかもしれません」
 純子は医者の口から啓太の名前が出るかと心配したが、綿里先生が知るはずもないし、母親にも愛理は名前など話していないはずだ。聞いたことがあっても覚えてはいないだろう。
 純子は胸をなでおろす。
 「それって、たしか啓太クンよね。いつも生徒手帳に写真はさんでる」
 純子の思わぬところから名前が飛び出した。
 里穂だ。
 純子は愛理の方を見る。
 全身の毛が逆立っていくのが見えた。
 「死んだって……本当なのか……純子! 言ってくれよ!」
 愛理は純子の襟首につかみかかって、激しく体を揺さぶった。
 純子はうなずいた。
 「どうして、どうして死んだんだよ」
 愛理は、無抵抗な純子の体を激しく揺さぶる。
 「愛理、怖い」
 里穂がつぶやいた。
 その言葉で、愛理は自分がしていたことに気付く。
 女の子に乱暴するなんて。
 愛理は、純子の襟から手を放した。
 しかし、その動揺は消えたわけではない。自分が死んでいたというショック、隠されていたというショック。愛理は自分の心をコントロールできなくなっていた。
 「記憶が戻ったのか?」
 綿里先生が尋ねるが、愛理は応えない。
 「愛理、思い出したの?」
 母親だ。
 「わたしたちのこと分かる?」
 千鶴が尋ねる。
 「分からない。分からないよ!」
 愛理が叫ぶ。
 「出てってくれ! 一人にしてくれ!」
 「落ち着きなさい」
 綿里先生がなだめようとするが、愛理は枕を振り回し始めた。
 「出てってくれって言ってるだろ!」
 愛理は涙が溢れる両目を閉じたまま、狂ったように枕を振り回す。
 「手伝ってください」
 綿里先生は母親に言うと、愛理の振り回す枕を受け止めた。
 そのまま枕を愛理に押し付ける。
 とにかく愛理を押さえ込むのだと理解した純子は医者と一緒に愛理を押さえつけた。母親も加わる。
 そして押さえつけられている愛理に、医者は懐から取り出した注射をした。
 しばらくして愛理の暴れるのが治まった。
 「落ち着いて、眠くなるから、そしたら眠るんだ。いいね」
 医者は優しく愛理に、話しかける。
 「一人にしてください」
 溢れる涙もふけずに愛理は、震える声で訴えた。
 「一人にしてあげるから、眠るんだ」
 ナースコールで呼んだ看護師がくると、カーテンを引いて、外から様子を見ておくように告げ、母親らを連れて病室の外にでた。
 「愛理は記憶が戻ったんでしょうか?」
 母親が尋ねる。
 「一部は戻ったのかもしれませんが、全てではないでしょう」
 「ごめんなさい。わたしが名前出してしまったばっかりに」
 「責任を感じることはないよ。いいから今日はもう帰りなさい」
 綿里先生は里穂と千鶴、そして、純子に言った。
 啓太が死んだことを、愛理は知ってしまった。しかし、愛理は本当の愛理が啓太の身体で死んだのだと誤解しているはずだ。死んだ理由も分かっていないだろう。
 純子は愛理にすぐにでも話さなければならないと思ったが今は話せないのも分かっていた。
 「愛理が目を覚まして、わたしのことを呼んだら、何時でも来ますから電話してください」
 純子はそう告げると、千鶴や里穂と一緒に、病院を後にした。
 
 
     第六章

 「お話、いいですか?」
 千鶴が純子に声を掛けた。
 「ええ」
 「あんな、愛理はじめてみたよ」
 里穂がつぶやいた。
 「昔はあんな、男みたいだったんですか?」
 「家庭内暴力みたいなのはね、何度か。友達に対しては、カッコつけみたいな感じで男っぽい言葉を使う程度で、乱暴することなんてなかったわ。今のは、混乱してたからよ。だから、嫌いにならないであげて」
 千鶴の問いかけに答える。もちろんそれは、入れ替わる前の本当の愛理のことだ。入れ替わりのことなど話せないからそう話したが、今の愛理を説明できた。
 「もちろん。嫌いになるなんて…… 啓太クンって、どんな子だったんですか?」
 「けっこうハンサムで、やさしくて、運動神経も良くて。人気者だったなぁ」
 多少美化されていたかもしれないが、純子は記憶の中の啓太を語った。
 「それで、愛理とは、どんな関係の人だったの?」
 「そ、それは……」
 純子には応えようがなかった。本当のことなど言えないし、恋人などと簡単なウソをついても、後の話が続かないだろう。
 「大事な友達かな。わたしが知ってるのはそのくらい」
 「やっぱ、恋人よね」
 純子の表現を無視して里穂が続ける。
 「大切な恋人が死んだことを受け入れられなくて、カレの死後も理想の女の子になろうとしてやさしい女の子になったけど、耐えられなくてカレの死を忘れてしまおうとして、そして記憶喪失になってしまったのね。なんてかわいそうなの。愛理」
 「飛躍が過ぎるよ」
 純子の思ってたツッコミを、代わりに千鶴が入れる。
 しかし、恋人という点を除けば、当たっているかもしれないと純子は思った。
 純子は愛理に、戻れない以上今後女として生きて行くために女らしくするよう押し付けていた。自分の肉体の死が受け入れられず、女としての生活にも耐えられなかった。それが記憶喪失を招いたのかもしれない。
 自分のせいなんだ。純子は、胸が苦しくてたまらなかった。
 
 純子の携帯電話が鳴ったのは早朝だった。
 そのときすでに、純子は病院の目前まで来ていた。夜のうちにかかると思っていたがかからなかったので、電話を待ちきれなくて、やってきていたのだ。
 電話は愛理自身からだった。
 「全部話してくれるよね」
 「そのつもり。もうすぐ病院に付くから」
 言って電話を切る。
 純子は、ひとつ深呼吸をして、再び歩き始めた。

 病室のドアをノックする。
 純子が部屋の中を覗くと、愛理はベッドの上に座っていた。
 「入っていい?」
 純子の言葉に愛理はうなずいて応えた。
 「昨日はゴメン」
 「いいの。わたしに、謝ってもらう資格はないわ」
 「ボクは…… ボクの体はどうして死んだの? 双海さんが耐えられなくなったせい?」
 「違う……」
 純子は否定したが、何処から説明していいのか迷っていた。
 そして意を決した。
 「双海愛理は…… わたしは…… ホントはわたしが双海愛理なの」
 「えっ! じゃあ……」
 「そう、亡くなったのがホントの純子なの。だましてたみたいでゴメンなさい。言い出せなくて。ホントにゴメン」
 幼馴染だった純子は二年前に死んでいた。
 胸が苦しくなるのを愛理は感じた。
 「純子……」
 涙がこらえられなかった。
 純子は、愛理が少し落ち着くのを待った。
 「それで、純子が…… 啓太君の身体が死んだのは、わたしのせいなの」
 「何だって」
 愛理は驚いて、声を上げた。
 純子は土下座する。
 「入れ替わりはわたしが誘ったの。わたし、そのとき啓太君のことが好きで、啓太君になってみたくて…… 闇サイトで、入れ替わりの魔法っていうのを見つけて、試してみたくて…… それで、純子に頼んで啓太君を誘ってもらって、入れ替わったの。わたしが啓太君に、啓太君が純子に、純子がわたしになったの。それでそのあと元に戻ればよかったけど、そしたらこんなことにならなかったと思うけど、純子も啓太君になりたいって言うから…… 入れ替わりの注意に、一年に二回まで、つまり入れ替わって戻るだけにしないと異常が起きることがあるって書いてあったのに、わたしそれを守らなかったの。『ことがある』っていう程度だから、きっと大丈夫だって勝手に思い込んでた。それでもう一度入れ替わりをやったの。今の状態に。入れ替わってる間は楽しかった。だから、元に戻るとき注意書きのことは、すっかり忘れていた。もし気にかけていたら、おかしくなったときやめていたら、助かっていたかもしれないって、ずっと後悔しているの。ううん、注意を守っていたら…… そもそもそんなことしなければって…… 全部わたしのせいなのよ。ごめんなさい」
 土下座をしたまま、純子は涙を流す。
 「分かったよ…… …… …… もう帰ってくれ」
 湧き上がる気持ちをこらえて、愛理はそう言った。
 「許してって言わない。本当にごめんなさい。殴ってくれてもいい」
 「帰れって!」
 感情が逆流し、言葉が激しくなる。
 「殴ってよ!」
 純子の言葉に、愛理はこぶしを振り上げた。
 覚悟をした純子は目を瞑る。
 愛理のこぶしが震える。しかし、こぶしは振り下ろされなかった。
 代わりに怒りは、言葉となった。
 「なんで、そんなことしたんだよ。なんで、なんで、なんで…… 純子を殺したんだよ。人殺し! 純子を返せよ!」
 入れ替わる前、啓太は愛理に密かな好意を持っていた。その記憶は今でもある。その愛理への好意よりも、啓太にとっては幼馴染の純子の存在が大事だった。だから、純子を失った怒りは、愛理への好意など吹き飛ばしていた。
 「ごめんなさい。本当にごめんなさい」
 「帰ってくれよ。お前の顔なんか見たくない。ニセモノなんか見たくないんだ。帰れよ」
 「わかったわ。でも、入れ替わりのことを知ってるのはわたしだけだから。困ったことがあったら呼んでね」
 「顔を見たくないって言ってんだろ!」
 「さようなら」
 うつむいたままつぶやくと、純子は病室を出て行った。
 愛理は、純子が出て行くとベッドへ突っ伏した。
 止まらない涙、嗚咽は枕が隠してくれた。

 病室の外で純子は泣いていた。
 事実を話すことを決めたときから、殴られることも、暴言を浴びせられることも覚悟をしていた。しかし、「顔も見たくない」という言葉は辛かった。
 純子にとって愛理は、本来の自分の姿であり、好きだった本当の啓太なのだ。もう会えないかもしれない。会ってもらえないと思うと寂しかった。悲しかった。辛かった。
 でも、すべて自分が招いたことだ。純子は耐えるしかなかった。
 
 
     第七章

 愛理は落ち着いた状態で、回診を受けていた。
 いや、放心状態に近かった。
 「傷口はだいぶよくなっているよ」
 医者は傷口を消毒しながら、話した。
 「今日から頭もシャワーしていいよ。シャンプーはまだだめだけど。掻いたり押さえたりするのもだめ。ぬるめのお湯をかけて、なでる程度にね。シャワーが終わったあとはナースコールして、包帯を巻きなおしてもらうんだ。いいね」
 愛理は「はい」と短く答えた。消毒してもらってるので、うなずけなかったからだ。
 「後は、精神科の綿里先生がいいといえば、退院できるよ」
 愛理はそれには黙っていた。
 『昨日のことで、退院は先延ばしなんだ』
 昨日の出来事の前は、主治医の井上先生が良いといえば退院と言ってたのに、『精神科の先生が』と変わったということは、そういうことなんだと愛理は理解した。
 「ふう」
 と、ため息に近い息を吐いた。
 「ところで、何かを思い出したの?」
 井上先生が尋ねる。
 「忘れたいです。 ……何もかも」
 質問には答えず、そう言った。
 「そうか。でも、君は明るくいい子だったそうじゃないか。昨日思い出したことは、まだ思い出してないことで、そのつらいことを君は乗り越えているんじゃないのかな。急がなくてもいいから、ゆっくり自分がどういう風に暮らしてきたのかを、考えてみたらどうだろう」
 優しい語り掛けに、愛理は心が少し落ち着くのを感じた。
 「精神科の先生みたいだね」
 「そうかい?」
 「先生。行きたい所があるんです」
 「じゃぁ、綿里先生に相談してあげるよ」
 愛理の頭に包帯を巻きながら、井上先生は笑った。

 翌日、呼ばれたのは、千鶴と里穂だった。
 一時外出が認められ、愛理が選んだ二人だった。
 「純子さんは呼ばないの?」
 「あいつはいい」
 千鶴の問いかけに、愛理は背中を見せて言った。
 「愛理らしくないよ。それ」
 言った里穂の腕を、千鶴が引く。それ以上刺激しないようにするためだ。
 「ところで、いつまで待たせる気?」
 千鶴が言った。
 愛理はパジャマ姿だ。出かけようとしているのに、まだ着替えていないのだ。
 今朝母親に届けてもらっていた着替えを前に、愛理は固まっているのだ。
 ベッドの上に広げられた着替えは、水色のフレアスカートと、白のブラウスヒラヒラ付き、そして白のブラジャーだ。
 「あ、あの、その……」
 愛理は恥ずかしそうにもじもじする。
 「どうしたの?」
 じれったいと感じながらも、千鶴は落ち着いて尋ねる。
 「これ、どうするの?」
 愛理が恥ずかしそうに指差したのは、ブラジャーだった。
 愛理の心は十四歳の男子だ。
 それがブラジャーであり、女の子が胸に着けるものだとは理解している。しかし、付け方など知らないどころか、見るのも名前を口にするのも恥ずかしくてたまらない。
 でも、付けなければならないという思いだけはあって、その葛藤から固まってしまっていたのだ。
 「えっ!」
 と二人とも声を上げる。
 まさかそんなことを困っていたとは、思いもよらなかった二人だ。
 「ブラジャーのこと忘れたの?」
 里穂が声を上げる。
 その里穂に向かい、千鶴は「しっ」と、口の前に人差し指を立てる。
 「まだ思い出せないこといっぱいあるから、仕方ないよね。恥ずかしがることないから、なんでも言っていいからね。じゃあ付けてあげるから、上脱いで」
 千鶴は優しく言った。
 しかし、愛理は両手でパジャマの両前を強く閉じ合わせ、恥ずかしがった。
 二人は愛理が極端な恥ずかしがりやだと分かっていても、これじゃどうしようもないよと思ってしまった。
 「それじゃ付けられないでしょ。それとも自分ひとりでするの?」
 愛理は自覚のないかわいらしさで、首を横に振る。
 ようやく愛理は、背中を向けながらもパジャマを脱いだ。
 そしてシャツを脱ぐ。脱いだシャツは胸に当てて隠している。
 「それは置いて、両手を前に出して」
 言われたとおり、愛理は両手を伸ばす。
 「うわっ」
 ブラを両腕に通すとき、千鶴は愛理の胸を覗き込む。
 それを見て、里穂も覗き込む。
 「すごいキレイ」
 見られた愛理は、ブラのカップを胸に押し付けて隠す。
 「いやだ」
 愛理は小声で拒絶する。
 「ごめんなさい。でもいつも見せてくれないんだもん。今日は役得ってことで……」
 千鶴がうれしそうに言う。
 「でもやっぱり、愛理は着やせするほうなのね」
 里穂も感想を言う。
 愛理は二人の女子を理解できず、胸を隠していた。
 「ゴメン、ゴメン。ちゃんとしてあげるから」
 千鶴がストラップを肩にかけ、背中のホックを留める。
 「胸は、ちゃんとカップに収めるのよ」
 言われて愛理は、だいたいの感じで、カップのずれを直す。
 ブラジャーに整えられた自分の胸を見て、愛理は恥ずかしさが倍増した。
 はっきりと見える谷間を、こんな間近で見たのは今の愛理にとって初めてのことだ。
 「ちょっと、自分の胸の谷間で、恥ずかしがらないでよ。ほら、シャツ着て」
 千鶴は頭からかぶせる。
 愛理はそれに腕を通す。
 後は、ブラウスとスカートだ。
 着替えが届いてから、たっぷり三時間。愛理はずっと、心の中で「なんでズボンじゃないんだよ」と文句を言い続けていた。同時に、「出かけるにはスカートを穿くしかない。穿くしかないんだ」と覚悟を決めていた。
 十四歳の男子の心の持ち主にとって、スカートを穿くなんて、想像もできないことだ。
 しかし、三時間の覚悟の結果、愛理はスカートを手に取り……
 「そんなにじろじろ見るなよ」
 二人を振り返って、言った。
 「今日はやけにゆっくり着替えるのねと思って」
 二人の話だと、愛理はいつもはささっと着替えてしまって、着替えるところをあまり見せたがらないということだ。愛理の着替えシーンには、二人にとってきっと価値があるのだ。ゆっくり着替えるということは、じっくり見られるということになる。
 愛理は自分を急かした。
 これを着るということは決めたんだ。もたもたして二人に着替えシーンを堪能させてやる必要はない。
 愛理は再び意を決すると、パジャマのズボンの上からスカートを穿く。前でホックを止め、ファスナーをあげる。
 次にブラウスに取り掛かる。
 ワイシャツを着る要領で、袖を通し、ボタンを留めようとするが、すごい違和感を感じて気がついた。
 『そっかボタンが反対なんだ』
 と分かったからといって、なれないボタンは留めにくい。意識すればするほど、焦ってしまってうまく止まらない。
 「どうしたの?」
 悪戦苦闘する愛理を見かねて、千鶴が声をかける。
 「うまく留めれなくて」
 「こっち向いて、留めてあげるから」
 愛理は千鶴に任せて、ボタンを留めてもらった。
 「あ、ありがとう」
 その言葉は、どこか子供っぽくて、千鶴にはかわいく見えた。
 「なんか、妹か、いとこにしてあげてるみたい?」
 「あれ? 千鶴って妹いたっけ」
 里穂が疑問に思う。
 「もしもいたらってこと。小学生のいとこはいるけどね」
 愛理は自分が小学生扱いされたことには気付いていない。
 ブラウスを着終わると、愛理は自分の服装を見下ろした。
 見慣れない角度で、女の子の服装を見て、ちゃんと着れているのかは、よく分からない。
 「……」
 困った表情で愛理を見ている二人。
 視線の意味が分からず、愛理は尋ねる。
 「どうしたの?」
 「それ、わざとじゃないでしょうねぇ」
 あきれたという感じで、千鶴が言った。
 「なにが?」
 「愛理の本性は、やっぱりテンネンなのかな……」
 「パジャマ」
 里穂が愛理に教える。
 愛理は気付いて顔を赤らめる。
 下着を見られないように、パジャマの上からスカートを穿いて後で脱ごうとしたのを忘れていたのだ。着終えたと思って確認したときは、スカートのヒラヒラに隠れて気付かなかった。
 愛理は慌ててパジャマのズボンを脱いだ。
 両方の生脚が触れ合って、下半身が裸のようだ。スカートってすごく頼りないな。愛理はそう感じた。
 「それで終わったつもり? もうっ! 服の着方まで忘れてしまったの?」
 ほんとにあきれた様子で、千鶴は愛理の服装を直し始める。
 「まずスカート。ファスナーが前に来てるじゃない」
 言ってファスナーの位置を左に直す。
 愛理は、そこが正しい位置だと知って驚く。
 「シャツが出てる」
 背中の方で、はみ出していたシャツをスカートの中へ突っ込む。
 愛理は後ろまで確認してなかった。
 「襟がゆがんでる。しっかりしてよ。こんなんじゃ先が思いやられるわよ」
 襟を直しながら、千鶴が言った口調は、あきれきっていたのか、ちょっと強いものだった。
 「ゴメン」
 自分は、二人に迷惑をかけているのだ。これからもきっとかけるだろう。愛理はそう思った。
 そう思うと、愛理は二人に申し訳なくなった。
 そして視界がにじみ始めたのに気付く。
 それが涙のせいだと分かって、愛理自身驚く。どうしてこんなことくらいで涙が出るんだ。涙もろくなったのか?
 男だったときは、涙を流すなんて、目にゴミが入ったときくらいだった。
 なのに、今は、すぐに涙が出る。
 こんななんでもないことなのに、涙を流すなんて、恥ずかしくて、愛理は慌てて涙を拭う。
 しかし、もっと慌てたのは千鶴だ。
 「泣かしたぁ」
 里穂が茶化す。
 「あ、その、怒ったわけじゃないのよ。ちょっと心配になったから。ごめんなさい。言い過ぎたみたい。気にしないで。記憶戻るまで、しっかり面倒見てあげるから」
 「ありがとう。うれしいよ」
 自分では覚えていない人に、優しくしてもらえるのはとてもうれしかった。それと同時に、覚えていないことが申し訳なく感じられた。
 
 看護師に見送られ病院を出た愛理は、恥ずかしさのあまり、とても大人しかった。
 そして頭の包帯を隠すため、つばが広い帽子をかぶっていることと、服装と、その大人しさとで、まるで清楚なお嬢様にも見える。
 愛理は時々うつむいて、ほほを赤らめる。
 「もうおかしなところはない? なんか視線をいっぱい感じるんだけど」
 愛理には、自分が女装して外を歩いているという風に思えて仕方がなかった。
 だからいっそう、ちょっとした視線でも、ヘンに見られてるのではないかと不安になった。
 「あえて言うなら、ちょっと挙動不審よね。きょろきょろしたかと思うと、うつむいてしまって。みんな、愛理がかわいいから視線がいっちゃうのよ。大丈夫だから、心配しないで」
 千鶴は愛理の精神状態が不安定になるのが心配で、やさしくそう言った。
 「そうそう、かわいいんだから、仕方ないの」
 里穂は千鶴の心配をよそに、思ったことを口にする。
 愛理はかわいいを連発されて、余計に恥ずかしさを感じてしまった。
 そんな調子で歩いて、電車に乗り、再び歩いて、目的の場所へ到着した頃には、一時間近くたっていた。


     第八章

 道のりは愛理も分かっていたが、記憶喪失を装っていることもあって、目的地だけ告げて案内は千鶴たちに任せていた。
 そこは、お寺の敷地内にある広い墓地だ。
 千鶴は何も言わなかったが、純子に連絡を取り教えてもらったのだ。愛理の母親も知らない。まして、千鶴たちも知るはずがなかった。おそらく、愛理もそれは理解しているだろう。
 直接純子に頼まなかったのは、純子に会いたくなかったこともあるが、ここへ純子を連れてきたくなかったからだ。
 純子は、本当の純子と啓太の身体を殺したのだ。そう思うと、どんな理由があっても、ここへは来てほしくなかった。
 千鶴は、あたりをグルグルと見回している。
 墓地のどの辺りに、啓太の家の墓があるのかは聞いていた。しかし、初めてくる墓地では、よく分からなかった。
 それで、方角とかいろいろ確認してもたもたしていると、愛理が二人から離れて、すすっと一人で歩きはじめた。
 「愛理」
 里穂が声を掛ける。
 「二人ともそこにいて」
 愛理は迷うことなく、一点目指してゆっくりと歩いていく。
 「どうして場所が分かるの?」
 「思い出したのかな」
 二人は言って、顔を見合わせた。
 愛理は啓太の墓がそこにあると思い出したわけではなかった。
 啓太が中学に入った年、啓太の祖父が亡くなり、そのときここに埋葬に来た記憶があった。ただその場所を見つけただけに過ぎなかった。
 
 愛理がたどり着いた場所には、稲本家の墓があった。墓石にそう刻んである。
 墓石の前には、墓用とは思えない花束が二つ置いてある。夏の日差しですでに萎れていた。それを純子が供えたのだとは愛理は知らない。
 墓標には何処にも啓太≠フ文字は刻んでいない。あるのは戒名だけだ。
 愛理は墓石の横の霊標を見た。
 四年前に亡くなった祖父の戒名の横に、新たに刻まれた文字。二年前の日付と、啓太の名前の一字啓≠含む戒名だ。
 純子は、啓太の身体は死んだと言った。
 しかし、愛理にはまだどこか疑う心があった。
 それを確かめたかったのだ。
 本当は啓太の家に直接行って確かめたかったが、そういうわけにもいかずここを選んだ。
 もう充分だった。
 自分の本当の肉体はもう何処にもないんだ。
 そして幼馴染だった純子はもういないんだ。
 実感としてとらえたとたん、寂しさが込み上げた。悲しみも苦しみも混じっている。複雑な感情だった。
 体を支える力が抜け愛理は、崩れ落ちるように墓石に倒れこんだ。
 「あぁ、あぁぁぁ……」
 墓石に抱きつくようにして、愛理は大声で泣いた。
 声の限りに、愛理は泣いていた。
 崩れる愛理を見た二人が、駆けつけたが、そんな愛理にどう接していいのか分からず、愛理の泣くに任せていた。
 「もらい泣きしちゃうよ」
 隣で里穂も涙を拭う。
 「なんで里穂まで泣いてるのよ」
 「つらいよ」
 里穂がつぶやく。
 「なんで愛理は二回も泣かなくちゃいけないの? だって、記憶なくす前にも、この人が死んだときに愛理泣いたんでしょ。どうしてまた泣かなくちゃいけないの? つらすぎるよぉ。わーーん」
 里穂も大声で泣き出した。
 たっぷり五分ほど泣いた愛理の泣き声が、落ち着いてきたのをみて、千鶴は愛理にハンカチを差し出した。
 しゃくりあげながら愛理は、ハンカチを受け取る。
 愛理は流れた涙を拭う。しかし、涙はまだあふれ出てきていた。
 千鶴は愛理を墓地の縁石に座らせ、落ち着くのを待った。
 それからさらに五分ほどが過ぎた。
 「落ち着いた?」
 愛理はうなずいた。
 「もういい?」
 再びうなずく愛理。声はまだ出なかった。
 千鶴は愛理を立たせ、スカートの汚れを払った。
 「じゃぁ、行こうか」
 千鶴は愛理の手を取り、歩き出した。
 黙ったまま愛理は、引かれるままに歩き出した。

 三人は、近くの喫茶店に入った。
 愛理がつば広の帽子を取ろうとするのを、千鶴は制した。
 「包帯見えるでしょ」
 「いいよ、邪魔だし」
 愛理は帽子を横に置く。
 帽子を取った愛理の顔に光が当たり、よく見えるようになった。
 好奇の眼が少なからず愛理に注がれているのを、千鶴は感じた。
 泣き腫らした目で、頭に包帯を巻いているのは、酷い姿だった。かわいい愛理が台無しだ。
 「顔拭きなさいよ。涙が乾いた後がついてるわよ」
 言われて、愛理はお絞りで顔を拭った。
 頼んだジュースが出されると、里穂が一番に口を付ける。
 「いっぱい泣いたから、喉カラカラだよ」
 言ってもう一口飲んだ。
 「なんかうらやましいな。愛理にこんなに泣いてもらえる人って。女ながらにそう思ってしまうよ。一体どんな子? 啓太クンって子のことは、思い出したんでしょ?」
 千鶴が尋ねた。
 しばらく悩んで愛理は首を横に振った。
 「思い出してないのに泣いたの?」
 里穂が不思議そうに声を上げる。
 「違うよ。啓太のことは覚えていたんだ。忘れていなかったんだ。忘れていたのは、啓太が死んだということなんだ。うぅ、う……」
 愛理は嗚咽を漏らす。
 「あ、ご、ゴメンなさい。もう泣かないで。話し変えましょ。そうそう、あれ、あれよ」
 覚えていたということが引っかかったが、刺激してまた泣かれてはいけないと思い、そのことはひとまず置くことにした。そして話題を変えようとするが、記憶のない愛理とあわせられそうな話が浮かばない。
 「そうだ。愛理が退院したら、お祝いしなくちゃいけないね」
 「そうそれよ」
 里穂の話に乗る。
 「快気祝い。クラスのみんな集めて、盛大にやろうよ」
 千鶴は笑顔で言うが、愛理の表情は暗かった。
 「いいよ。みんな集まってくれても、誰だかわからないし。悪いよ」
 「あぁ……」
 千鶴は声を漏らす。
 「お医者さん言ってたじゃん。今までどおりの生活をしろって。団結力のあるわたしたちのクラスでは、退院祝いにみんなが集まるのはいつものことなの」
 「里穂。それ強引。でも愛理、みんながお祝いしたがってるのよ。元気な愛理の顔が見たいのよ。わたし、みんなにはね、病院に来ないであげてって言ってるの。病院の名前も内緒にして。ややこしいときだったから。勝手なことだったらごめんなさい」
 「ううん。それでよかったよ」
 「そのせいで、わたしはメール攻めよ。見て」
 千鶴は自分のケータイの画面を愛理に見せる。
 知らない名前が、愛理の病状を尋ねるメールばかりだ。
 「記憶がないことは、話してるから。愛理がみんなのこと分からなくても、誰も文句言わないから。退院祝いの時にまだ戻ってなかったら、自己紹介させるから。みんな愛理の元気な姿見るだけで、充分なんだよ。見せてあげてよ」
 愛理は、千鶴の気持ちがうれしく思えた。
 事故の後目覚めてから、みんなに愛理≠ニ呼ばれていたが、愛理自身その人間が自分のことだという実感はなかった。ただ、自分の知らない愛理という存在がいて、この二年間、この体で過ごしていたんだ。自分とは別の人間だという感じがしていた。
 しかし、今日自分の肉体の死を実感し、この二年間自分はこの体で過ごしていたんだということを理解して、別の存在だった愛理≠ェ自分≠ノ重なったような気がしていた。
 まだ思い出せないもう一人の自分を慕っていてくれる友達がいる。それをとてもうれしいことだと感じていた。
 愛理はうなずいた。
 「じゃぁ、早速計画立てないといけないわね。やっぱり、みんなの集まりやすい終業式の後がいいわね」
 「終業式?」
 「来週の月曜日よ」
 「それまでに退院できるかな?」
 「大丈夫よ。もうこんなに元気なんだから」
 「うーん」
 退院が延長されたのを知っている愛理は、少し心配だった。
 「場所は、ミクちゃんの喫茶店!」
 里穂が提案する。
 「それはいいかもね」
 話は、とんとん拍子に進んでいった。

 病院まで戻ってきたとき、時刻は五時近かった。
 「もうここでいいよ」
 「ダメダメ。お医者さんに引き渡すまでが、わたしたちの仕事なんだから」
 「なんか、護送された犯人みたいな言い方だな」
 「じゃあ、連行するから」
 笑って千鶴が言った。
 ナースセンターで愛理が帰ったことを知らせると、看護師が精神科の医者を呼び出した。
 三人は先に病室へ向かった。
 しばらくして、病室に綿里先生がやってきた。
 愛理の笑顔を見て、安心した様子だ。
 「問題はなかった?」
 「特には」
 千鶴が報告する。あえて、啓太のことを覚えていたという話は伏せていた。愛理自身医者に伏せているのだったら、言わないほうがいいと思ったからだ。
 他にもいくつか愛理の様子を聞かれて、ふたりで答えた。
 「じゃあ、わたしたち帰るね」
 「今日はホントありがとう」
 「気にしないで親友なんだから。じゃあね」
 二人は、病室を後にした。
 しばらく歩いたところで、里穂が口を開いた。
 「そういえば今日主治医の先生、海もプールもしばらくだめだって言ってたよね。傷口にばい菌入ると大変だからって。治るころにはクラゲがいっぱいだよ。一緒に海に行きたかったのに。残念だなぁ」
 「あなたは海と愛理とどっちが大事なのよ? 今度言ったらグーで殴るわよ」
 千鶴は拳を振り上げる。
 「ひゃぁ、ごめんなさい」
 里穂は頭を覆う。
 千鶴は立ち止まっていた。
 「今日もわたしたちの名前、一度も呼んでくれなかったね」
 千鶴は寂しそうにつぶやいた。
 「そうだったね」
 「友達のように接してくれてるけど、純子さんとは違って、まだまだ他人なのね」
 千鶴は、ゆっくりと歩き出した。
 

     第九章

 「明日、退院だよ」
 主治医の先生から、回診のとき唐突に宣告された。
 うれしさがなかったわけではない。だけど、笑顔にはなれなかった。
 「不安かな。だけど、大事な一歩だよ。頑張って踏み出さないと」
 黙っている愛理を見て、医者は優しく声を掛ける。
 「はい」
 短く応える愛理。
 不安と同時に、愛理は困ってもいた。
 自分が完全な記憶喪失で、なにもわからないなら困りはしなかったかもしれない。
 しかし、自分は稲本啓太、男だという記憶がある。それなのに、憧れていた、或いは片思いといってもいい、そんな双海愛理の家に、愛理として帰るのだ。
 二年間愛理と暮らしてたといわれても、その記憶はない。他人の、女の子の部屋で自分が暮らすなんて、考えただけでも難しかった。
 しかも、知らない人を家族だとして、一緒に暮らすのだ。息が詰まりそうだった。

 そのあと、母親が到着すると、退院後の注意事項や、傷口の消毒の仕方、薬の付け方などいろいろな注意を聞かされた。
 途中、千鶴と里穂がやってきたのだが、説明を聞かされている途中だったので、すぐに帰っていった。ただ、退院の報告を聞いて、すごく喜んでいた。
 
 翌日、愛理は母親と一緒にタクシーで、彼女の家に向かった。
 家に到着しても、帰ってきたという実感はない。他人の家だ。
 誰もいない家の中は、蒸し暑かった。
 「何か飲む? お茶入れてあげようか?」
 「うん」
 答えた愛理は、居場所が見つからずリビングに立ったままだった。
 「立ってないで、こちらに来て座りなさい」
 母親が優しく言って、椅子を引いた。
 言われるまま、椅子に座る。
 入れてもらった麦茶を、愛理はゆっくりと飲んだ。
 病院からの荷物を一通り片付けた母親が戻ってきた。
 「あ、あの……」
 なんと呼びかけていいかわからず、そう言った。
 お母さんと呼んでもらえず、母親は寂しそうな表情をするが、すぐに優しい表情に戻る。
 「なに?」
 「自分の部屋に行ってもいいですか?」
 愛理自身、他人同士の会話だと気付きながらも、家族だと思えない以上、それ以外の言い方はできなかった。
 「もちろん…… ごめんなさい気付かなくて。分からなかったのね。母親なんだから何でもいってくれていいのよ」
 母親は、家の中を案内しながら、二階にある愛理の部屋へと連れて行った。
 何処を見ても思い出すことは何もなかった。
 部屋のドアを開けると、そこは女の子の部屋だった。
 派手な飾りはなくて落ち着いてはいるが、自分好みの部屋ではなかった。
 「お昼ごはんができたら呼んであげるから、ゆっくりしてなさい」
 母親はそう言って、愛理を一人にしてくれた。
 愛理は椅子に腰を下ろす。
 他人の物に黙って触れるみたいで何もできず、そのまま、部屋の中をただ眺め回した。
 ベッド、勉強机、クローゼット、カーテン。何も覚えていなかった。思い出せない。
 こんなところで暮らせるのだろうかと、心配になった。
 もし、純子がいたらきっと、いろいろ教えてくれたに違いない。ここはもともと彼女の部屋なのだから。
 しかし、今の純子とは会いたくもないし、口もききたくなかった。

 母親に呼ばれて、愛理はダイニングへ降りた。
 「あら、着替えればいいのに」
 同じ服装のままの愛理を見て、母親が言う。
 言われて、そうすればよかったと気付く愛理。しかし、女の子がこんなときどういう服を着ればいいのかなんて、分からない。
 「分からないんです。何をすればいいのか、何を着ればいいのか」
 「気付いてあげられなくて、ごめんなさい。ご飯の後見てあげるわ。それに家族なんだから、遠慮しないでなんでも言うのよ」
 母親は優しく言うが、愛理には家族だとは感じられなかった。

 夜、父親が仕事から帰ってきた。比較的早い時間に帰ってきたのは、娘の退院を理由にしてで、明日からは、遅くなるのだそうだ。
 退院祝いと称して新しい携帯電話を買ってきていた。同じ機種だった。
 元気のない声で「ありがとう」といって、愛理は受け取る。
 古い携帯電話は、電源は入るものの、壊れていて、データの移し変えができなかったそうだ。
 だから、番号やメールアドレスは引き継いでいるものの、アドレス帳はまっさらの状態だった。クラスメイトたちには携帯電話が壊れているのは、連絡が回っているのだろう。だから、入ってくるメールはなかった。
 晩御飯の席で、父親はとにかくとてもうれしそうに「よかった」を連発した。入院中は、一度顔を見に来た程度で、忙しそうに帰っていっただけだったので、そんな父親の様子は、愛理にとって少し予想外だった。

 晩御飯の後、少ししてお風呂が沸くと、母親は愛理の着替えを用意して、お風呂に入るように促した。
 憂鬱な時間だ。それでいて複雑な気分になる時間でもある。
 脱衣場の入り口の前に洗面台があり、愛理はしばらくの間、自分の姿を見つめる。
 自分でない自分を見るのは、嫌だった。
 入れ替わる前、愛理がまだ啓太だったとき、啓太は愛理のことをよく知らなかった。ただ、かわいい子だな、付き合えたらいいな程度だった。愛理のあまりよくない評判だとかは、何も知らなかった。単純に見た目が啓太の好みだった。それだけだ。
 そんな自分好みの顔が、今鏡に写っている。
 しかしそれが自分の顔、これからこれが自分の顔だと思うと、かわいいなんて見とれている気分ではなかった。
 しかも、顔だけではないのだ。
 これから肉体と向き合う時間なのだ。
 脱衣場に入る。
 着替えをかごの中に入れると、愛理は深くため息をついた。
 脱いだ服は洗濯機へと放り込んでゆく。
 脱ぐたびに、目のやり場に困って行く。
 誰がとがめるわけでもないのに、自分が憧れた少女の裸を見ているということに、罪悪感はなくせなかった。
 最後のショーツは、余所見がちに脱いでゆく。
 事故から一週間ほどたって、だいぶ見慣れたといっても、まだ自分の体という認識はもてていなかった。
 ショーツも洗濯機に放り込むと、浴室のドアを開ける。
 蒸し暑さが、一気に愛理を襲う。
 かかり湯をして湯船につかる。
 乳房に浮力がかかり、ヘンな感じだ。目を瞑ってみても、その感覚は消えない。
 愛理は、そんなことを感じながら、一分ちょっとで、湯船からあがった。
 身体を洗おうと石鹸を探すがなかった。代わりにボディソープを見つける。
 それをタオルにつけて、泡立てる。
 愛理は、さしさわりのない、手、背中、足と洗っていく。
 啓太だったときと同じように、ゴシゴシと洗うと痛いくらいなので、撫でるようにやさしく洗う。
 『女の子の肌は敏感なんだな』
 そう思いながら、これから洗うところをどうしたものかと考える。
 考えていても洗わないわけにはいかない。仕方なくタオルを動かす。
 余計なことは考えず、タオルを滑らせる。
 ヨケイナコトハカンガエズ……
 『余計なこと ……、……。ダメだ』
 細かな泡が、敏感な胸の皮膚を滑らかに刺激する。
 「ハァ」
 男だったならとっくに下半身が大きくなっているところだろうが、愛理は今は違う興奮を下半身の中に感じる。
 タオルは左手を残し、おへそを過ぎて、下腹部へと移る。
 しばらくためらうように下腹部を撫でる。
 愛理は膝で立つと、タオルを両脚の間へと進ませる。
 二、三度タオルを往復させた後、素手に変える。
 啓太の体にはなかった形状が、啓太の体には戻れないことを愛理に再確認させる。
 『この体は、もう自分のものなんだ。だったら……』
 「うぅっ」
 声が漏れて、愛理は『ダメだ』と思い直した。
 事故の後何度目だろうか。自分が情けないと愛理は感じた。
 愛理は、蛇口のお湯でタオルを洗うと、シャワーに切り替えた。
 「きゃっ!」
 シャワーのホースに残っていた水を被って、思わず声を発した。
 『女の子の声だ』
 そう思うと「ハァ」とため息が漏れた。
 シャワーで体の泡を洗い流し、髪の毛をぬらす。事故以来ちゃんと洗ってないので、べたつきを感じていた。
 退院後は傷口に気をつけてシャンプーしても良いと言われていたので、今日はシャンプーで洗うことにした。
 シャンプーをつける前に、傷口を確かめる。左手で耳の上辺りから後頭部にかけて斜めに縫った後をなぞってみる。触ると少し痛みが残る。縫い傷の周りは髪の毛が切られていて、短い毛がチクチクと指に触れた。
 愛理はその場所を避けてシャンプーをした。背中まで達する髪先は指でしごくようにしてみる。
 「これでいいのかな……」
 ちゃんと洗えているか心配だった。
 シャンプーを洗い流すと、再び湯船に浸かる。
 ふと、純子はどうしているだろうと思った。
 入れ替わりのことなんて言わなければ、純子と自分は親しい関係のままだったはずだ。
 いや、記憶喪失にならなければ、純子に聞くまでもなく自分は入れ替わりのことを知っていたのに、純子とは親しい関係のままだったらしい。
 純子は罪滅ぼしのため愛理の世話をしているようなことを言った。
 記憶喪失の前の自分は、純子を許していた? そもそも純子に責任があったのだろうか?
 記憶のない愛理には分からないことだった。
 そして、きっかけとなった里穂の言葉を思い出す。
 生徒手帳にはさんだ啓太の写真。
 そのことに思いが及んだとたん、愛理はその写真が気になりだした。見てみなくては治まりそうにない。
 愛理は急いで風呂から上がった。


     第十章
 
 「かわいそうに」と言われながら、母親に傷口の消毒と、ガーゼをつけてもらい、最後にネット状のサポーターをつけてもらう。
 それから愛理は部屋に戻り、すぐに写真を捜すことにした。
 写真は生徒手帳の中にあるらしい。
 啓太だったころ生徒手帳は学生服の胸ポケットに入れていた。だから、制服を探そうとクローゼットを開けた。
 色鮮やかなワンピースや、かわいらしいブラウス、スカートなどが目に入る。
 それらを見回して、それを着るのは自分だと気づくのに、五秒くらいかかっていた。
 「ズボンがないよ。やだなぁ」
 つぶやきながら、さらに制服を探す。
 右端のほうに制服らしいブレザーを見つけた。
 ハンガーに紺色のひだスカートがかかり、その上に紺色のブレザーがかけてある。
 よくありそうなその制服を見ても学校名は、愛理には分からなかった。
 ハンガーを手に取り、愛理は金色のエンブレムが刺繍された胸のポケットに手を伸ばそうとして、瞬間ためらう。
 女子の制服の胸ポケットに手を伸ばすということが、なんだか女の子の胸に手を触れるような気がしたのだ。
 しかし、誰かが今それを着ているわけではない。
 愛理はポケットの中に指を入れた。
 空っぽだった。
 念のため内ポケットも探すが、見つからなかった。
 「そっか。今は夏服だもんな」
 つぶやいた。
 そして、次に探す場所を求めて、部屋の中を見回した。
 机の上にノートやいくつかの本が置いてある。念のため愛理はその本とかをめくってみたが、下からは出てこなかった。
 次に机の脇にカバンを見つける。深いエンジ色の女子用の学生カバンだ。
 やはり、カバンを開けるのは、プライバシーを侵害するようで、愛理は少しためらった。
 愛理は、これは自分のものなんだ、そう言い聞かせて、カバンを開けた。愛理は気付いてなかったが、入れ替わってから入学した高校のものだ。だから実際、このカバンは、間違いなく今の愛理のものなのだ。
 中には教科書が二冊、ノートが一冊、プリントが数枚見えた。
 ポケットのほうを調べると、そこに目的の生徒手帳を見つけた。
 深緑の皮製で、校章と高校の名前が金箔で押してある。
 反対側は透明な枠が開いていて、学生証がはめ込んであった。
 学生証の写真は、少し笑顔で恥ずかしそうにはにかんでいるように見えた。
 「このときはもう、ボクだったんだよな……」
 男に戻れず、憎いはずの愛理の体で過ごすのに、この表情は不思議な感じがした。
 そして、扉を開ける。
 学生証の裏側にその写真はあった。
 中学三年の啓太が普段着で写っていた。愛理には啓太だったときに、こんな写真を取られたという記憶はない。
 背景はどこかの公園で、広い敷地にたくさんの木々がはえているのが、ぼんやりと写っている。
 啓太の表情は、とても恥ずかしそうに、テレた笑いをしている。自分らしくないなと思った。
 『でもどうしてこんなところに、写真なんか入れているんだろう』
 自分は写真を持ち歩くような性格ではない。ましてや自分の写真など。
 分からないまま、愛理は生徒手帳を勉強机の上に置いた。
 ふと目線を上げると、ノートパソコンが勉強机横のラックになおしてあった。
 取り出して電源を入れると、パスワードの入力画面が表示される。
 「使えないな……」
 つぶやいてから愛理は、壊れた携帯電話にもパスワードがかかっていたことを思い出した。まともに操作はできないが、電源だけは入ったので、パスワードがかかっていたのを知っていた。
 「ガードが固いんだ……入れ替わりのことがあるから?」
 そうだと、愛理は思った。
 きっと入れ替わりについて、何か残しているんだと。それがメールなのか、日記なのか写真なのかはまだ分からない。けどきっと何かある。愛理はそう信じた。
 それから愛理はいくつか思い当たるパスワードを試した。
 名前、誕生日、電話番号。もちろん啓太のと愛理のとだ。
 しかし、どれもヒットしなかった。
 「ダメだぁ」
 つぶやいた後、『純子なら分かるのかな』と考え、否定した。あいつには会わないんだと。
 
 椅子に座ったまま、愛理はしばらくぼんやりとしていた。
 それから、ノートパソコンを元の位置に戻す。
 何気なく勉強机の一番上の引き出しを開けてみた。
 手紙がいくつかと、未使用のかわいらしいデザインのレターセット。そして端っこだけが見えるもの。レターセットをどけると、やはり写真だった。
 しかもそこには、愛理と純子と啓太が写っていた。
 啓太は同じようにはにかんだ笑いで、純子はちょっとすました感じで、愛理は恥ずかしそうな表情で直立不動のようなポーズだ。
 「同じ服だ」
 写真に写る啓太の服装が、生徒手帳の写真と同じものだと気付く。
 見比べると、背景も同じようなところだ。同じところで同じ日に撮ったのだとわかる。
 愛理と啓太が一緒に写っているところからすると、入れ替わりの前後で間違いない。啓太と愛理とは一緒に写真をとるような仲ではなかった。今の愛理の記憶の中では、啓太にとって愛理はまだ、かわいい女の子だなという顔を知ってるだけの存在だった。
 「きっと入れ替わったあとで撮ったんだろうな」
 恥ずかしがっているのが、啓太と愛理だから、二回目の入れ替わりの後だろう。
 その写真からはそれ以上のことは分からなかった。
 愛理は写真を引き出しに戻した。
 それから、同じ引き出しにある手紙を見た。
 引き出しを開けたときは、手紙に目を通すつもりはなかった。しかし、差出人の名前に純子の文字を見つけて、それを手に取らずにはいられなくなった。
 入学を報告する内容のシンプルな手紙だった。
 他のいくつかも純子からの手紙だった。
 どれもシンプルな内容で、純子の近況を報告する内容と、愛理が送った手紙の内容に対する返事のようなものが短く書いてあった。写真もある。
 少なくとも、愛理と純子の仲は、手紙のやり取りをして、時々は会っていた仲だった。
 そうすると、純子が自分のせいだと告げて、自分が純子を恨む気持ち、これは一体何なのだろうということに愛理は思い至る。
 記憶をなくす前の愛理が知っていたことを純子は話しただけなのだ。なのに以前は少なくとも仲がそれなりにはよかったはずだ。今は絶縁状態にある。ということは、純子が話した内容にウソがあるのか? しかし、自分が不利にあるようなウソをつく意味が分からない。
 愛理は混乱していた。何も分からなかった。

 新しい歯ブラシで歯磨きを終えた愛理は、リビングにいた両親に「おやすみ」をいうと、部屋に戻った。
 さえない愛理の表情を見た両親の表情が曇っていたのを、愛理は見た。
 「だって、しょうがないよ」
 部屋に戻った愛理はつぶやく。
 わからないことだらけで、頭がいっぱいだ。そのうえ家族の振りをして明るくおやすみなんて言えない。愛理には今はそれ以上のことはできなかった。
 時刻は夜の十時近くだった。
 寝るには早いかなと思いながらも、愛理は疲れていたので、もう眠ることにした。
 寝るところはもちろん愛理のベッドだ。
 他人のベッドに入るような気がして、はじめ躊躇ったが、横になってみると、マットのやわらかさや枕の高さがしっくりきて気持ちよかった。ただ、香りだけは、眠りに落ちるまで、ずっと気になっていた。


     第十一章

 愛理が目を覚ましたとき、もう九時をずいぶんと過ぎていて、暑さを感じるくらいだった。
 階段を下りていくと、母親が掃除をしていた。
 「おはよう。朝ごはん食べる?」
 母親が尋ねる。
 愛理は少し考えてから、
 「少しだけ」
 と答えた。
 母親が、トーストと紅茶の準備をはじめる。
 それをなんとなく見ていた愛理だったが、ふと思い立って、立ち上がった。
 「後は自分でするよ」
 後をするといっても、ティーカップにお湯を注いで、トーストをお皿に載せるだけのことだ。
 「いいのよ。座ってなさい」
 母親は驚いた様子だったが、やさしくそう言った。
 「お医者さんも言ってたよね。今までどおりしなさいって。だからやるよ」
 愛理は母親の手からティーカップを奪う。
 「そう……」
 娘の面倒をみたい母親は、未練そうだったが、掃除の続きへと戻っていった。
 トーストが焼き上がり、それをお皿に載せる。
 愛理はゆっくりと食べ始めた。
 トーストが残り半分になったころ、インターホンがなった。
 母親が応える。
 「愛理。お友達の加藤さんだけど、あがってもらう?」
 言われた愛理は、
 「加藤?」
 と疑問の声を出して、インターホンの画面を覗き込む。
 それが千鶴のことだと分かる。
 「どうしよう」
 愛理は、食べかけの朝食と、自分のパジャマ姿を交互に見る。
 「外で待ってもらうわけにもいかないし、あがって待ってもらうわね」
 愛理はうなずいた。
 通された千鶴は、愛理の様子を見て、
 「ごめんなさい」
 と謝る。
 愛理は照れた笑いを返した。
 「さっき起きたところで……」
 母親は千鶴にも、紅茶を用意する。
 「今日は一人なんだ。何の用?」
 「里穂とはいつも一緒って訳じゃないわよ。それに遊びに来るのに理由がいるの?」
 千鶴は笑顔で応える。
 「ゆっくり食べて。お部屋で話しましょ」
 と言われても、愛理は目の前で人を待たせて、ゆっくりなどしてられなかった。
 急いで食べ終えると、母親の「置いておいていいわよ」の言葉に甘えて、片付けはせず、愛理の部屋に向かった。
 「着替えたほうがいい?」
 「いいわよ。そのままでも。病院でパジャマ姿は見慣れたから」
 千鶴はそう言って優しく笑った。
 この部屋には、椅子は、勉強机のがひとつだけしかなかった。
 愛理は千鶴にその椅子を、勧めて、自分はベッドの縁に腰掛けた。
 「ありがとう」と、千鶴は言ったが座らず、愛理の横に立った。
 千鶴は何か言いたげだったが、少しためらった表情をして、立っていた。
 愛理はふと今の状況が、まだ自分の部屋だとは自覚のないこの場所が実は千鶴の部屋で、千鶴と男である自分がいて、今の沈黙はこれからやましいことを始める前触れのような気がした。
 そんな妄想をしてしまい急に恥ずかしさが込み上げて、顔を赤くした。愛理は気付かれないように、うつむいた。
 もう少しの間沈黙が続いた。
 「差し出がましいようだけど……」
 千鶴が話し始めた。
 愛理が想像した状況ではなかったことに少し安心したが、深刻そうな話の内容に顔を上げて千鶴を見た。
 「純子さんと仲直りしたほうがいいよ」
 愛理はそれには応えず、拗ねた子供のようにうつむき、再び沈黙が続いた。
 千鶴は膝をついて、目の高さを愛理に合わせた。
 愛理は更に下を向く。
 「逃げないで!」
 強い口調だった。
 「愛理、あなた純子さんに『人殺し』とまで言ったってホント? 最後に病院に行った日、他の患者さんがヒソヒソ話してたわ」
 愛理は驚いて一瞬顔を上げたが、再びうつむいた。
 朝の静かな時間に、あれだけ大声を出せば、聞かれていないほうがおかしい。
 「否定しないんだ…… もしそれが愛理の本当の姿なら、あたし愛理の友達でいられない」
 「わからないんだ。何が本当のことか……」
 「あなたは、今記憶がなくて、不完全な状態なの。その不完全な判断で、大切な友達をなくしてしまっていいの? 記憶をなくす前はお友達だったんでしょ? だったらなお更、今の状態が間違ってる」
 「そう思ったけど…… 後からいろいろ考えると、そう思ったよ。でも、純子が自分のせいだって言ったんだ。だから…… 分からないんだ」
 言って愛理は頭を抱える。
 「あなたから連絡しにくいなら、あたしがしてあげるから」
 しばらく黙り込む愛理。そして口を開く。
 「今はムリだよ。もう少し気持ちが整理できないと……」
 「分かったわ。しばらく待ってあげる。でも、必ず仲直りしてね。じゃぁこの話は、これで終わり」
 突然明るい口調に変わる千鶴。
 「じゃーん」
 と言ってカバンから取り出したのは、写真だった。
 千鶴は、そのたくさんの写真を床に並べる。
 どれも高校に入ってからの写真だ。特に高校生活での写真が多い。更にほとんどが愛理の写っている写真ばかりだ。
 愛理には自分が写っていても、そのことの記憶はない。それに、愛理の姿をまだ自分のものだという充分な認識がなかった。だからそこに写ってるのが自分だという実感はあまりなかった。
 「これだけ印刷するのどれだけ時間がかかったか分かる? 感謝しなさいよ」
 笑いながら、恩着せがましさを装って、千鶴が言った。
 「あ、ありがとう」
 「これは、今年の五月の体育大会ね」
 そう言って指差した写真の一群には、愛理の体操服姿が写っている。
 さわやかな日差しの下で、それに負けないくらいのまぶしい笑顔。楽しそうに友達としゃべっている瞬間。
 愛理は少し照れくささを感じた。
 「これは、今年の初詣の写真」
 愛理を含めて五人が写っている。みんな着物姿だ。
 「これは、去年の文化祭。完全に仕切ってたんだから」
 腕まくりしている愛理が、他の生徒たちに、ものの配置を説明している様子が写っている。
 「これは、去年のプール」
 他のみんながカラフルでかわいいデザインの水着なのに対して、愛理だけ紺色に緑のストラップのスクール水着だ。それでも、或いはそれだからか、なおさらかわいい。
 「どう。何か思い出した?」
 千鶴が尋ねる。
 「かわいい」
 つぶやきがもれる愛理。
 「なーに自分で言ってるのよ」
 ツッコミをいれた千鶴の手が、愛理の頭に当たった。
 「イタッ!」
 怪我のところではないが、傷口に響いて頭を押さえる。
 愛理はそのまま倒れ伏した。
 「ご、ごめんなさい。だ、大丈夫?」
 慌てた千鶴が、愛理を抱き起こす。
 しかし、愛理は力なくだらりとしている。
 「ボクは愛理じゃないんだ」
 小さい声だがはっきり聞こえた。
 「へ?」
 愛理の突然の言葉に、千鶴は変な声を発する。
 「ボクは愛理なんかじゃないんだ。自分を見ても自分だとは思わないし、まるで他人を見るようにかわいいなんて思ってしまうし、自分のハダカ見ても恥ずかしいって思うし」
 弱い声で、愛理は話した。
 「あ、愛理が壊れたぁ」
 おかしなことを言い出したきっかけが、自分が頭を叩いてしまったことだから、千鶴は慌てる。
 「そんなんじゃないよ。自分のことを、千鶴さんが言うような慕われるような性格だとは感じられないし、委員長するような人間にも思えない。だから、きっと別の人間なんだ。ボクはみんなの知っている愛理なんかじゃないんだ」
 愛理は強い声で繰り返した。
 「そんなこと言わないで。あなたは愛理よ。だって、純子さんやお母さんだって言ってたでしょ。啓太君が死んだときあなたは変わったんだって。その変わったところの記憶がないんだから仕方ないわよ。お願いだから、自分を否定するようなことは言わないで」
 「そんなんじゃ……」 
 そんなんじゃないと言いかけた愛理を、千鶴は抱きしめた。
 女の子に抱きしめられて、愛理は恥ずかしくて顔が赤くなる。しかし、恥ずかしさが愛理の冷静さを少し取り戻させた。
 そのまま言い続けていると、きっと自分は啓太だと言っていたに違いないと愛理は思った。
 「ゴメン。なに言ってるんだろう。ボク」
 「わたしこそごめんなさい。さっきは純子さんのことで責めてしまって。精神が不安定になることもあるってお医者さんに言われてたのに、あんなこと言ってしまって。安心して、記憶が戻るまで、しっかり面倒みてあげるから」
 千鶴はさらに強く、愛理のことを抱きしめた。
 「く、苦しいよ」
 ホントは『恥ずかしい』なのだが、愛理はそうごまかした。
 「ごめんなさい」
 千鶴は、愛理を解放する。
 「この写真って、借りてていいのかな」
 恥ずかしさをはぐらかすために、愛理は言った。
 「あげるわよ。データは持ってるから。そういえば、初めて、わたしの名前を呼んでくれたね。『さん』つけだったけど。いいから千鶴って呼んで。そう呼んでくれてたんだから」
 「う、うん……」
 返事はしたが、そう呼ぶには、まだ抵抗があった。
 「それから、『ボク』っていう愛理もなんかかわいい。これからそれでいく?」
 かわいいといわれて恥ずかしかったが、それを否定すると言うことは、『わたし』と言うことになるのかと考えると、どっちにも答えられなかった。
 「そうそう、あしたの終業式、学校に来る?」
 「そのつもりだけど」
 「まぁ、学校はどっちでもいいんだけど、終わったあとそのまま快気祝いパーティだから。そっちは、主役なんだから必ず来てね」
 「うん。そうだ、新しいケータイ買ってもらったんだ。番号やアドレスは同じだって。ただ他の人には、まだ言わないでほしいんだ。知らない人からの電話やメールって嫌だから」
 千鶴は愛理の携帯へ、ワンギリして番号を通知した。
 「分かったわ。じゃあ、帰るね。この後みんなとブラブラするんだけど、よかったら一緒にくる?」
 「ううん。いろいろとやりたいことがあるから」
 もらった写真を、ゆっくり見て、自分のことを考えたかった。写真だけじゃない、この部屋にある、二年間の思い出を、探し出して、考えたかった。自分のことを。そして純子のことを。
 「そっか。じゃあ、明日待ってるね」

 その日の午後は、この狭い部屋を調べるには、充分すぎたが、自分と純子のことを考えるには遥かに短すぎた。


     第十二章

 月曜日の朝、愛理は少し早く目が覚めた。
 顔を洗った後、部屋に戻った愛理は、昨日母親が用意してくれた新しい制服に目をやった。事故のときに来ていた制服は、血がついていたり破けたりしてもう着れなかった。
 紺色のひだスカートと、淡いクリーム色のブラウス、かわいらしい赤いチェックのリボン。
 「はあ」
 ため息を漏らす愛理。
 「やっぱり、休むって言えばよかったかな」
 弱気な言葉をもらした後、ダメだ、と気持ちを奮い立たせた。
 千鶴たちが自分のために用意してくれた、退院祝いを無駄にはできない。
 今日は学校に絶対に行かなければならない。
 そのためには、この制服の問題を解決しなければならなかった。
 「女の子の服は、退院のときにも、千鶴たちとお墓に行ったときも着たじゃないか。だったらこれだって」
 確かにこの女子の制服も女の子の服だが、普通の服とはハードルの高さが違った。
 躊躇っている間に時間はどんどん過ぎてゆく。
 自分はもう女なんだ!
 愛理はそう覚悟を決めた。
 しかし、その前に下着の問題も待っている。
 ひとりでつけるのは、初めてのブラジャー。
 悪戦苦闘で留めた背中のホック。その後カップの位置を正す。
 ホックがちゃんと留まってるか、鏡に映して確かめる。
 深呼吸してから、次にシャツと思って愛理が着たのは、キャミソールだ。薄くてさらさらした手触りと、肩のストラップの部分が細いのが、なんとなく頼りない感じだ。
 ブラウスに袖を通す。ボタンをゆっくりと留めてゆく。
 スカートを穿いて、ファスナーをあげると、今度は左側に位置を正した。
 リボンを残して着終えた制服を、鏡に映して確認する。
 「やっぱ、かわいいな」
 言ってから恥ずかしい言葉だと気付いて、赤くなる。
 男だったら今の愛理を見て誰もが言いそうなせりふだったが、言われる本人が言うとナルシストだ。
 愛理はカバンの中身をチェックする。
 といっても終業式だし、筆記用具以外必要なものが浮かばない。
 生徒手帳はカバンに戻してあるし、携帯電話もマナーモードにして入れてある。
 学校への道順を覚えてないから、地図もちゃんと入れた。
 財布に定期券も確認する。
 カバンとリボンを持つ。
 「よし」
 気合を入れて、愛理は部屋を出た。

 朝食の後、母親にリボンをつけてもらい、しつこいほどおかしなところはないか尋ねた。
 「本当について行かなくて大丈夫?」
 心配そうに母親が尋ねる。
 「大丈夫だから。地図は持ったし。じゃぁ、行ってきます」
 「行ってらっしゃい。本当に気をつけてね」
 愛理は母親に背を向けると、軽く深呼吸してから、ドアを開けた。

 教室に千鶴が到着したとき、生徒はまだまばらだった。
 「ちょっと早かったかな」
 今日は急がなくても良かったかなと思った。
 やがて、里穂やミク、良美と、特に親しい友達が登校してきて、千鶴の周りに集まってきた。
 「今日は愛理をいっぱい励ましてあげないとね」
 良美が言う。
 「ちょっと、愛理は落ち込んでるわけじゃないんだから」
 「じゃぁ、どうすればいいの?」
 「早く記憶が戻るように、応援するのよ」
 ミクの疑問に里穂が言う。
 「それもダメよ。プレッシャーかけちゃうじゃない」
 「じゃあ、どうすればいいのよ」
 ミクが同じ質問をする。
 「普段どおりに接してあげて。ただ、Kクンの写真のことと、中学のときのことは絶対禁止。戻りかけてる記憶が、愛理の一番辛い思い出だから。いい?」
 千鶴がミクと良美に説明した。Kクンとは、啓太のことだ。クラスの一部知ってる人間だけで通じる言葉だ。
 「そうそう。その話したとき大変だったんだから。泣いたり、あばぅわぁうう」
 千鶴が里穂の口を塞いだ。
 「よし! ほかのみんなにも注意しとこう」
 良美がいって、黒板の前に立つ。
 「はい、みんな注目! 今日われらが委員長、愛理がわたしたちに元気な姿を見せるために、無理を押してきてくれます。でも知ってのとおり、まだ記憶は戻ってません。
 ここで愛理と接するときの注意事項があります。
 まず連絡網でまわしたとおり、ちゃんと名札つけてますか? つけてない人は愛理とお話しする権利はありません。つけてる人もちゃんと自己紹介すること。
 次に頭には触っちゃダメ。特に男子はジロジロ見るもの禁止。女の子の傷は見せ物じゃないんだからね。
 それから、今までどおり普通に接すること。
 あとKクンのことは、言っちゃダメ。中学時代の話も禁止。わかった?」
 最後の禁止事項には、男子を中心に疑問符を浮かべてる人間が多い。
 「千鶴センセイ。他に注意事項はないですか?」
 良美が千鶴に振る。
 突然のことに慌てるが、少し考えて立ち上がった。
 「そうね。やんちゃ時代の記憶が戻りかけてる影響で、言葉遣いが男の子っぽいけど、気にせず普通に接してあげて」
 「それにしても遅いね。愛理」
 ミクが言った。
 もうほとんどの生徒が登校してきている。ホームルームの始まる五分前だ。
 いつもは十五分くらい前に来ていて、みんなを出迎えるほうの愛理が、まだ来ていない。記憶喪失なんだからと分かっていても、心配になってしまう。
 「ねぇ、迎えにいってあげなくて良かったの?」
 里穂が言う。
 「だって、家反対方向だし、路線だって違うんだもん」
 そう応えたが、こんなに心配するなら、迎えにいけばよかったと少し後悔した。

 チャイムが鳴る。
 しかし、愛理はまだ来てなかった。
 「終業式にも来るって言ってたんだけど」
 「じゃあ、きっと何かあったんだよ」
 「家に電話してみよ」
 そう言ったとき、担任の先生がやってきた。
 「席に着け!」
 言って、プリントなどを教壇にドンと置いた。
 「双海はまだか?」
 全体を見回して、愛理の席だけが空いているのを見て、担任が言う。
 「家に電話しようかと思うんですが」
 良美が言った。
 そのとき、千鶴は自分の携帯がマナーモードの唸りを上げているのに気付いた。
 見ると愛理からだった。
 慌てて出る。
 『ゴメン』
 愛理が謝る。
 「愛理、どうしたの?」
 クラス中の視線が千鶴に集まる。
 『道に迷ってしまって……』
 恥ずかしそうに愛理がいう。
 「えぇっ!」
 と驚いた後、記憶喪失だから、道も分からないのかなと納得した。
 「今何処にいるの?」
 『なんとか駅まで戻ったところ』
 「じゃあ。迎えに行くから待ってて」
 『わかった』
 電話を切った千鶴は、先生に許可をもらう。
 「分かった。行ってやれ」
 千鶴は急いで飛び出していった。
 
 ときどき雲が太陽を翳らせる程度の晴れだった。
 全校生徒がグランドに集められ、校長の挨拶を聞かされている。
 早く終わらないかなと、みんなが願いだしたころ、校門から二人の女子が入ってきた。
 千鶴と愛理だ。
 最初、それに気付いた数人から、徐々に他の生徒へと伝わってゆく。
 「愛理ィー!」
 誰かが叫ぶ。
 ほとんど全員の視線が愛理へと向いた。
 歓声が起こる。
 「愛理! 退院おめでとう!」
 再び誰かが叫んだ。
 「な、なにこれ」
 愛理が驚いて、千鶴に尋ねる。
 「みんなあなたのことを心配してたのよ」
 どう対応していいのか分からず、愛理はぎこちない笑みを浮かべて、千鶴に連れられてゆく。
 「静かに!」
 と先生たちが注意する。
 二人は、クラスの列の一番後ろについた。
 「双海さん。退院おめでとう」
 静かになったころ、校長もそう言った。
 全員の歓声が再び上がる。
 愛理はどうしていいか分からず、とりあえずお辞儀だけをした。
 静かになるのを待って校長は再び話し始め、少ししてそれは終わった。
 生活指導の先生が、続いて夏休みの注意事項を話す。
 それも終わって、生徒たちはようやく解放された。
 教室へ戻るとき、愛理は千鶴もろとも数名のクラスメイトの女子に取り囲まれる。
 記憶のない愛理には、彼女たちが同じクラスの子たちだとはもちろん分からなかったが、なされるままだった。
 「わたしたちが愛理を守るから」
 囲まれたまま、愛理たちは教室へ向かう。
 「愛理。退院おめでとう」
 「先輩、早くよくなってくださいね」
 「双海さん。がんばれー!」
 次々に、声を掛けてくる生徒たち。
 愛理は愛想笑いして、時々手を振り返す。
 「ごめんなさい」
 千鶴が言う。
 「クラスのみんなには、プレッシャーになるから普通に接してあげてっていったんだけど、全校にまでは周知できなくて。だから、律儀に相手しなくていいのよ」 
 そんな感じで、教室に着いたときは、愛理はもうくたくただった。
 しかし、席についても状況は、それほど変わらなかった。
 クラスの女子が、愛理を取り囲み、質問攻めだ。
 「もうケガは痛くない?」
 「まだ何も、思い出せないの?」
 「記憶喪失ってどんな気分?」
 「あ、えと……」
 今の愛理にとって、知らない女子に取り囲まれ、いっせいに質問を浴びされれたものだから、困ってしまって、口どもる。
 そこへ取り囲む女子を、押しのけて割り込んできたのは、良美だった。
 そして、愛理の手を掴むと、
 「愛理よかったよー。千鶴から事故で入院って聞いたときは、死んでしまうんじゃないかって、もう心配で心配で。で、千鶴がお見舞いに行った後話を聞いたら記憶喪失だって言うじゃないの。自分のことも分からないって辛いよね。もう、かわいそう過ぎるよ。代われるなら代わってあげたいよ」
 「あ、ありがとう」
 「良美まで、愛理を困らせてどうするのよ」
 「わたしは、いつもどおりだよ?」
 悪びれた様子もなく、良美は応える。
 「はいはい、あなたはいつもどおり。マイペースです。ごめんなさい、愛理。こうならないように、みんなにちゃんと説明したつもりだったのに、わたしの言い方が悪かったみたいで。嫌な質問には答えなくていいんだから」
 「あ、うん」
 「わたしって、悪者?」
 良美の問いに、愛理は困ったはにかみ笑いで、首を横に振った。
 そこへ担任の教師が教室へ入ってくる。
 「席に着け! まだ終わってないぞ。双海、加藤。通知簿とプリントだ」
 千鶴が愛理を迎えに行ってる間に配られたものだ。
 その後、休み中の注意事項などの、連絡事項を聞かされた。
 「それでだ。今回の退院パーティだが。なんで夕方からじゃないんだ。俺は勤務中だ。問題起こすなよ。じゃあ、解散!」
 「じゃあ。行動開始!」
 突然立ち上がって、指揮を執り始めたのは、良美だった。
 「ミク、準備部隊連れて先行って。買出し部隊も出発。お金持ってる? それじゃあ、本隊も出発。護衛部隊、愛理のガードよろしく。掃除当番後よろしく。遅れないでね」
 良美が先頭切って教室を出てゆく。
 「ご苦労さま」
 当番とはいえ、パーティの前に掃除で居残りとは、申し訳ないと感じて、愛理は掃除の準備を始めるクラスメイトに言葉をかけた。
 「記憶なくても、やっぱり愛理ね。気の使い方が違うわ」
 「そうなのかな……」
 「双海さん。ちょっとよろしいかしら」
 愛理たちが教室を出たとき、声を掛けてくる女子生徒がいた。名札のバッヂが三年生を表わしている。
 その人物が誰か気付いて、ガードしかけたみんなもガードを解く。
 「生徒会長の田端さんよ」
 千鶴が愛理に教える。三年生だけあって、結構大人びて見える。大人しいしぐさが余計にそう見えさせる。
 「まずは退院おめでとう。それで、こちらにサインいただけるかしら?」
 田端輝美はそう言って、一枚の紙を差し出す。
 「生徒会休暇願?」
 渡された紙に書かれた文字を読む。
 愛理の頭の中は疑問符が溢れている。
 「あなたは副会長だから」
 「えーっ。副会長」
 学級委員長とは聞いていたが、生徒会副会長とは聞いてなかった。自分がそういう柄ではないと思っている愛理は、びっくりして大声を上げた。
 この学校では、生徒会役員の立候補がなかった場合、委員長の中から選挙で選ばれることになっている。会長は三年から、副会長は二年から、その他は一年からだ。たまたま、今年は副会長の立候補がなく、選挙で愛理が選ばれたのだ。
 輝美は、驚いている愛理を、突然抱きしめた。
 「かわいそうに。自分のことも分からないなんて、ホントかわいそう」
 愛理は輝美の制服に残る柔軟剤の香りや、髪の毛のシャンプーの香り、そして身体から立ち上る女の子の香りを近くに感じながら、なにが起きたのか考えていた。
 『ボクは女の人に抱きつかれている。でも……』
 恥ずかしさは感じていたが、もし男だったならこんなに冷静に考えていられなかっただろう。女の子に抱きつかれているのに、男のようには興奮をしていない。やっぱり自分は、もう女の子なんだな。愛理はそう感じていた。
 少しして、輝美は愛理を解放した。
 「生徒会は夏休み中も仕事があるのよ。でも今のあなたを働かせるわけには行かないから、この書類を出してほしいの。ゆっくり休んで、二学期からまたお願いね。期待しているんだから」
 愛理は教室に再び入り、入り口に一番近い机に、書類を置いた。
 「うまく書けるかな」
 小声でそう言った言葉は、おそらく誰の耳にも届いていない。
 愛理はペンを取り出し、『双海愛理』の名前を書いていく。
 書き終えたところで、愛理は自分の書いた名前を見つめていた。
 「どうしたの?」
 千鶴が心配して尋ねる。
 「名前が書けた。自分の名前が書けたんだ」
 自分の名前を書いたくらいで、などとその場のほとんどの子が思ったに違いない。
 しかし、千鶴には愛理が、『愛理』という名前を自分の名前だと、自覚したんだとはっきり分かっていた。
 だが、千鶴が思う以上に愛理は、その名前が自分のものだったと感じていた。
 サラサラと書いたその字が、啓太が書くような字ではなく、女の子らしいかわいい字だった。
 その字の名前を自分がサラサラと書いた。
 『双海愛理』という名前が、ぐっと自分に近づいたのを、愛理は感じていた。
 「良かったね。記憶が戻るのも、きっともうすぐよ」
 千鶴は優しく、微笑みかけた。


     第十三章

 喫茶「メモリーズ」は、数人のアルバイトを雇うだけあってかなり広いスペースを持っていた。
 入り口には「愛理の退院祝いのために本日貸切」のウェルカムボードが出されている。クラスの誰かが書いたのは明らかだ。
 店内は普段はない飾り付けが、いたるところに施されていた。
 ゆっくり歩いてきた愛理たちが到着したときは、クラスのみんなはもうほとんどそろっていた。
 少し遅れて、教室の掃除班が到着する。
 「全員そろった?」
 「田中がまだです」
 「あいつは、クラブだって」
 報告が飛ぶ。
 「何だって! ケータイ分かる人呼び出して、二学期から席はないよって伝えて」
 良美が男子に命令する。
 「なにもそこまで」
 愛理は真に受けて、良美の腕を引っ張る。
 「来ない人はほっといて、始めよっか」
 全員にジュース類が配られる。そして、みんなでつまめるような食べ物やケーキが、用意が出来た順に出されてゆく。
 「まずは、愛理の退院を祝して、そして、早く記憶が戻ることを願って、カンパーイ!」
 良美がひとり仕切って、進行してゆく。
 「じゃあ、自己紹介の時間をとります。時間ないから名前のほかは一言だけでお願いね。名札は必ずつけること。じゃあまずはわたしから。名前は五十嵐良美。クラスいちの元気な女の子です」
 「お調子者でーす」
 茶々が入る。
 そんな感じで、一人ひとり、愛理の前に出てきて自己紹介をしてゆく。
 全員が自己紹介を終えると、次は思い出話が始まった。
 愛理には覚えていないことばかりだったが、自分のことだと思って聞くと、恥ずかしくなる話ばかりだった。
 「それにしても去年のプール、愛理の水着には度肝抜かれたよね。まさかスクール水着だなんて。今度は絶対ビキニ着せたいよね。今年はやっぱ海にするんでしょ」
 誰かが言った。
 愛理の横に座る里穂は愛理に上目遣いをしてから言う。
 「海行きたいけど……イタッ!」
 「海の話したら殴るって言ったでしょ」
 里穂の頭を叩いたのは、千鶴だ。
 「ちょっと、かわいそうじゃないか」
 愛理が里穂をかばう。
 「今年の夏は泳いだらいけないって、言われてるの知ってるのに、未練たらしく言うのがいけないって言ってるの。里穂を甘やかさないで。愛理はいつも里穂には甘いんだから……」
 「『いつも』なんだ」
 笑顔で愛理はつぶやいた。記憶を失う前の自分に近づいていることが、今はうれしかった。
 「里穂。海行こうよ。ボクは泳げないけど、水辺までなら行けるんだから」
 話題に気が行っていて、誰も愛理が友達の名前を呼んだことには気付いてなった。
 「じゃぁ快気祝い第二弾『愛理と海辺に集う会』発足しまーす!」
 良美が早速仕切っている。
 「それにしても、愛理のしゃべり方、男の子っぽくてかわいいね」
 誰かが言った他愛のない一言だ。
 「それ、禁止ワード」
 千鶴がツッコむ。
 「千鶴。もういいって、悪く言ってるんじゃないんだから。でもやっぱり『わたし』って言うべきなのかな」
 それは、愛理にとってまだ少し抵抗のある言葉だった。
 「ねぇねぇ。傷はもう治ったの? 十針も縫ったって本当?」
 「触るとまだ痛いし、消毒は毎日やってるよ。見る?」
 愛理は髪の毛を掻き揚げる。
 「きゃ、ひどーい」
 「愛理何してるのよ。見せるもんじゃないでしょ」
 「いいよ。減るもんじゃないし」
 千鶴の言葉に、愛理は笑って抗う。
 「あたしにも見せて」
 「こっちもー」
 というリクエストに応えて、愛理はみんなの間を歩いてゆく。
 入り口近くまで来たときだった。
 扉が開いて入ってきたのは、田中だった。
 「裕一郎……」
 愛理は思わずその名を呼んでいた。
 静まり返る。
 教室にもいたが、あの時は女子に囲まれ、愛理は裕一郎に気付いてなかった。
 同じクラスに、啓太としての友達がいたなんて。
 それよりもだ、今は記憶喪失の愛理だ。それがいきなり男子を下の名前で呼ぶなんてありえない。
 しかし、出てしまった言葉はもう、引っ込めることは出来ない。
 「……クン」
 慌ててそれだけ言い足して、下の名前呼び捨て状態だけは、回避した。
 言った愛理は立ち尽くしている。
 呼ばれた裕一郎も、呆然と立ち尽くす。
 「えーっ!」
 静まり返っていた場内が、驚きに沸き返る。
 「愛理、記憶戻ったの?」
 誰かのその言葉に、愛理は応える余裕はなかった。
 「……」
 言葉が出ない愛理。
 「退院おめでとうな」
 ぶっきらぼうな言い方で裕一郎が言う。
 「ありがとう」
 ようやく言葉が出た。
 「ボクなんで名前知ってたんだろうね」
 とぼけてそういう愛理。
 もちろん、啓太として、裕一郎のことをよく知っていたから、名前が飛び出したのだ。中学のとき二人とも野球部に所属し、クラブ以外でも一緒に遊ぶことが多かった。しかし、愛理としては高校での記憶が戻ったのならともかく、戻ってない今は、中学のときの記憶が少しあるで通さなければいけないが、中学時代の本当の愛理として裕一郎をどれだけ知っていたのか、今の愛理には全く分からないことだった。
 「そんなこと知るか」
 相変わらず、無愛想な裕一郎。
 千鶴は、二人の様子が心配になって、愛理のそばにやってきた。
 「確か二人とも同じ中学よね」
 千鶴の言葉は、愛理の助け舟となる。
 「それでかな? 中学のときのことは少しだけ覚えてることがあるんだけど」
 「中三のときは、同じクラスだったからな」
 変わらず、ぶっきらぼうな裕一郎。
 このままでは、険悪な状況に陥りかねないと思った千鶴は、とりあえず二人を引き離そうと考えた。
 「二人ともこんなところに立ってないで、席着いて。田中君は何飲むの?」
 愛理は暗い表情で、うなずき、自分の席へと戻った。
 まだ聞きたいことがあった。
 中学三年のとき同じクラスだったということは、純子とも同じクラスということだ。
 入れ替わってすぐの愛理や純子を知っている。
 裕一郎に聞けば、入れ替わったときの二人の様子が分かるかもしれない。
 純子が、隠してるかもしれない何か。
 それを知りたかったが、今この場所でそれを聞くことができないのもわかっていた。

 愛理は遠くにみんなの話し声を聞いていた。
 「名前で呼ぶなんて、深い中だったのかな」
 「でも、田中クンの態度は、むしろ仲悪そうな感じよね」
 「つき合ってたけど別れたってやつじゃない?」
 「でも、田中クンと愛理が付き合ってたなんて。ショックぅ。だって不釣合いじゃない」
 確かに裕一郎は、三段階評価なら上から二番目だが、四段階評価ですると下から二番目という位置づけだ。一般人が絵になるカップルを思い描くと、美女は美男子と付き合うべきなのだ。その点からすると、愛理と裕一郎は不釣合いという見解が大多数を占めるのは間違いなかった。
 「なんか元気なくなったね。どうしたの?」
 千鶴が心配して声を掛ける。
 「田中クンて、ボクのこと嫌いなのかな?」
 「さあ。でも確かに、他の男子みたいに愛理と親しくなろうとするようなことはしてなかったわね。けど、それは愛理だって似たようなもんだったよ。ぎこちない感じだったというか。中学のとき何かあったんじゃない? あ、でも今は深く考えないほうがいいよ」
 千鶴は愛理がまた泣いたり暴れたりしないか心配になって、話を変えようとした。
 「ところで、純子さんには連絡取った? 謝れとまでは言わないから、話できる状態にはしとこうよ」
 「分かったよ。後で連絡する。あぁ、ケータイに番号まだ入れてないや。番号教えて。持ってるんでしょ」
 愛理はカバンから携帯電話を取り出した。
 千鶴が番号を伝えるより早く、その携帯電話を見つけた一人が叫ぶ。
 「愛理。新しいケータイ、もう買ってるんじゃない!」
 「番号は、一緒? メアドは?」
 「わたしの番号も、登録して」
 「まだ使い方がよく分からなくて」
 その後、アドレス帳に登録する作業に追われて、愛理は疲れてしまった。

 お開きになった後、ミク他片付け部隊を残して喫茶店を後にした。
 カラオケに誘われたが、愛理は断って帰ることにした。
 「なんか、疲れちゃったみたいで」
 「大丈夫? 家まで送ろうか」
 「いいよ。あ、でも駅までは頼もうかな……」
 そう言って愛理は照れ笑いをする。
 何人かと一緒に、愛理たちは駅へと向かった。
 「愛理を疑うわけじゃないけど、純子さんへは電話してくれるわよね」
 千鶴が小声で言う。
 「えっ、う、うん」
 あいまいな返事をする愛理。
 「やっぱり、今あたしが掛けるね」
 「わかった、掛けるよ、自分で」
 愛理はしぶしぶといった感じで、携帯電話を取り出すと、さっき登録した純子の番号を呼び出し、コールした。
 『……電源が入ってないか、電波の……』
 「圏外みたい」
 電話の音声を千鶴にも聞かせる愛理。
 「うれしそうに言わないでくれる。約束して、帰ったらちゃんと純子さんに電話すること。わかった」
 「うん」
 重たい返事を愛理はする。
 「千鶴ぅ、また愛理いじめてるの?」
 良美が横から、二人のことを覗き込む。
 「人聞き悪いこと言わないでよ」
 「でも、泣かしたって聞いたよ、里穂から」
 「里穂なんてこと言うのよ」
 言葉と一緒に手が出る、千鶴。
 「イターいぃ」
 里穂が頭を抱えて逃げる。
 「ねぇ、千鶴って、ひょっとして凶暴?」
 愛理は良美に尋ねる。ただし、仕返しとばかりに他の子たちにも聞こえる声で。
 「愛理まで、そんなこといわないでよ」
 「ゴメン、ゴメン」
 「そうそう、服とか水着、あさって買いに行くからね。待ち合わせの時間とか場所は、また連絡するから」
 良美が愛理に告げる。
 まもなく、駅に到着する。
 「本当に大丈夫?」
 「家に着いたらメールするよ。みんな、今日はホントにありがとう。じゃあ」
 言うとくるりと振り返る。
 髪の毛が、ふわっと広がり、再び背中でまとまる。
 それはみんなが見慣れた、別れ際のくるりと振り返る仕草だった。
 「もう少しなのかな」
 千鶴はつぶやいた。
 
 一時間後、愛理は家にたどり着き、メールをしようと、携帯電話を取り出した。
 『今つきました。道を二回も間違えました。疲れました』
 メールを送り終えた愛理は、下腹部をさする。
 「食べすぎ? 飲みすぎかなぁ?」
 啓太のときのような、勢いで飲み食いしたことを、少し反省した。
 愛理はそのまま、トイレにこもった。
 「でないや」
 しばらくしてつぶやいた。


     第十四章

 翌日の朝、愛理はジャージ姿で、下腹部を押さえながら、一階に降りていった。
 「あら、ジョギング? 記憶が戻るまではやめといたほうがいいんじゃない? 昨日も道に迷ったんでしょ」
 母親がいう。
 「それは言わないで」
 まさか朝通った道を間違うなんて、思ってもみなかった愛理は、恥ずかしくて身を隠すところを求めて、テーブルの影に沈んでいく。そして指先と目から上だけを残して止まった。
 「ねえ、ボク、ジョギングしてたの?」
 母親の言い方がそんな感じがしたので、愛理は尋ねる。
 「そうよ。週に一、二回程度だったけど」
 「なんで?」
 「さあ、聞いてなかったけど。でも、やっぱりプロポーションのためじゃない? そのままでも充分かわいいけどね。あなたはわたしの宝物よ」
 愛理は照れくささを感じながらその言葉を聞いた。
 その『かわいい』という言葉は愛理の身体にいわれた言葉であって、啓太だった愛理のことではない。なのに照れくさいと言うのは、愛理自身どうしてそう感じたのかよく分からなかった。
 「ところでさぁ、出かけるの?」
 母親の服装に気付いて愛理が尋ねる。
 「ちょっと会合があって。今日は一日家にいるのよねぇ。何かあったらすぐに電話しなさい。すぐに帰ってくるから。ごめんなさいね。本当はついていてあげたいんだけど……」
 申し訳なさそうに母親は謝った。
 「大丈夫だよ。何かしておくことある?」
 「いいわよ。今日はアレでしょ? ゆっくりしてなさい」
 「いいって。洗濯しとこうか」
 気遣ってはいても、やはり優しく言ってくれる娘のことがうれしかった。
 「じゃあ、お願いしようかしら。無理はしないでね」
 母親はカバンを持つと、出かけていった。
 「『今日はアレ』ってなんだ?」
 母親の言葉を思い出して、つぶやいた。
 「まっいっか」
 再び下腹部をさする。
 それから、愛理は用意されていた朝食を食べた。

 愛理は朝食の後片付けを終えると、洗濯にかかった。
 カゴに入っていた洗濯物を洗濯機にぶっちゃける。
 すり切りいっぱいの洗剤を入れ、洗濯機のスイッチを入れる。
 後は脱水までしてくれる。
 これから何をしようかと考え、まだ純子に電話してないことを思い出す。
 「やっぱ、しないといけないよな」
 そう考えて携帯電話で掛けようと二階への階段を上がりかけたときだった。
 何かが出たのを感じた。
 「えっ」
 漏らした? そう思ったものの、そうじゃないという感覚が伝わってくる。
 愛理は慌てて、トイレに駆け込んだ。
 ジャージをおろし、ショーツをおろしかけて、手が止まる。
 「いやぁ!」
 無意識に声が上がる。
 真っ赤な血が、ショーツを染めていた。ショーツから溢れた血は、ジャージにもついていた。
 愛理は便器へ腰を落とした。
 それは座ったと言うよりは倒れたに近かった。
 自分の身に起こったことが理解できず、力なく座ることしかできなかった。
 『どうしたんだ? ボクの身体。 何があった? 病気? まさか……』
 不安な状態が、ネガティブな方向へ思考を向かわせる。
 『なにをすればいい? どうする?』
 考えてまず、ショーツの血を拭き取れるだけトイレットペーパーで拭き取った。
 お尻の血も拭き取る。
 『助けを呼ばなきゃ。
 お母さん? 大事な会合みたいだったじゃないか。呼び戻したら悪いよ。
 千鶴? 来るのに時間かかるよ。
 じゃぁ、純子。純子しかいないよ。この身体はもともとあいつのものなんだから』
 そう思って立ち上がろうとしたが、汚れたショーツを再び穿く気がしない。かといって下半身ハダカで出てゆくなんてできない。
 仕方なく、愛理はトイレットペーパーを畳んで、汚れた部分にのせ、ショーツを上げた。気持ち悪かったが、我慢する。
 トイレを出て、二階の自分の部屋へ向かう。電話は、キッチンやリビングにもあるが、純子の電話番号が分からない。
 普通の電話で掛けるにしても、携帯電話で掛けるにしても、一度は自分の部屋に行かなければならない。
 愛理は下腹部に力が入らないように気をつけて、自室へたどり着いた。
 そして携帯電話を取り出し、純子へと掛けた。
 待ち遠しかった。
 圏外ではない。コールする音がした。
 「愛理?」
 不安そうな声で、純子が出た。
 「助けて純子」
 愛理は、泣き声でそう呼んでいた。
 
 中学の同じ校区ということもあり、純子はすぐに来た。
 愛理は玄関で、へたり込んだ姿勢で、純子を待っていた。
 純子は汗まみれだ。全速で来てくれたのが分かる。
 「純子……」
 呼びかけたが、人殺しとまで言ってしまった自分を助けに来てくれた、そんな純子の顔を愛理は真っ直ぐ見ることができなかった。
 「大丈夫よ。生理って知ってる?」
 純子は愛理を優しく抱き起こす。
 「言葉は聞いたことはあるけど。どんなのかは…… これが生理なの?」
 「そうよ。女の子の身体は、だいたい一ヶ月周期で、子供を宿す準備をして、できなかったら捨てて、また準備してを繰り返すのよ。それで、準備してたのを捨てるとき、こうやって、血液と一緒に流れていくのよ」
 純子の説明を、愛理は顔を赤く染めながら聞いていた。
 「大変なんだ。女の子って」
 感心の声を発する愛理。
 「あなたもその女の子よ。わたしは…… いえ、あなたは軽いほうだからまだマシよ。酷い人は動けなくなるくらいの人もいるのよ」
 「純子は? ……あっ、ごめん。やらしいこと聞いちゃって」
 「女の子には普通のことよ。わたしは、あなたよりちょっと酷いかな。標準ってくらいね。とにかく、まずはシャワーを浴びて、着替えましょ」
 純子は愛理をバスルームへ連れていき、裸にした。
 相変わらず、恥ずかしがる愛理。
 「わたしは見慣れてるわよ。その身体」
 「でも、見られるのはやっぱり、恥ずかしいな」
 愛理がシャワーを浴びる間、純子は汚れたトイレットペーパーを捨てて、血の着いたショーツを洗い、洗面器で漂白に掛ける。
 「愛理、着替え取りに部屋に入るわよ」
 純子は声を掛けて、愛理の部屋に向かった。
 サニタリーショーツをとり、ナプキンを探す。
 純子が知ってるときとは、僅かに物の置き場所が変わってたので、探す必要があったが、目的のものはすぐに見つかった。
 それを持って、再びバスルームに向かう。
 愛理はすでにあがっていて、身体を拭いていた。
 夏の昼間で寒くはなかった。
 純子はその場で、愛理にナプキンの付け方から、血がついたときの処理の方法など、必要なことを教えた。
 そして今、愛理は下着姿でいる。
 「部屋に行って、服着てきてもいい?」
 「もちろんよ」
 愛理が部屋に向かってすぐ、唸りを上げていた洗濯機が止まった。
 血の着いた汚れは早く洗濯したほうがいい。そう思って、純子は洗濯機のふたを開けた。
 
 愛理がパジャマ姿で降りてくる。
 「ちょっと愛理。これあなたがやったの?」
 洗濯機を純子が指差している。
 「ランジェリーは、ネットに入れて洗わないと痛むわよ」
 「そうなんだ」
 「色物も一緒だし。幸い色移りはしてないみたいだけど。こういうのは分けないと」
 「へぇ」
 「……わたし、何言ってるんだろうね。他人の家の洗濯物のことなんて……」
 自嘲気味に純子が言う。
 愛理は洗濯物をカゴに取り出す。
 それを干すために、二階へ持ってあがる。
 純子のことはほったらかしだ。
 もちろん、意地悪したいとか、そういうことではない。
 気まずさのためだ。
 以前の愛理なら、きっと、「ゆっくりしてて」とでも声を掛けただろう。
 しかしまだ、純子のせいで啓太の身体が死んだ、そのことで愛理が純子を恨んだ気持ちは、疑問符がついているものの、まだ残っていた。
 そのために、自分からは声を掛けないという選択しかできなかったのだ。
 「これ洗っておくね」
 「うん」
 純子は経血の着いたジャージとショーツを洗濯する。
 洗濯機のスイッチを入れた後、純子は愛理を追いかける。
 ベランダで、干している愛理の横に立ち、干すのを手伝う。
 「ハンガーに掛けた後、伸ばしたほうがアイロン掛けるの楽になるんだよ」
 「そうなんだ」
 生返事で応えたが、洗濯物をちゃんと伸ばすようにしている。
 純子が手伝ったおかげで、すぐに終わった。
 「話があるんだけど」
 愛理が真顔で、純子に向かう。
 
 二人は、愛理の部屋の中にいた。
 「今日のことは、ありがとう。ホントに助かったよ」
 不機嫌そうな表情のままで愛理はお礼を言う。
 「ところで、入れ替わりのことでボクに何か隠してない?」
 愛理は問い詰めるように鋭い眼差しできく。
 「何も隠してないけど…… どうして?」
 「君のせいで、本当の純子がボクの身体で死んだ。これには間違いはないよね」
 愛理の言葉に純子はうなずく。『君』と呼ばれたことは、たとえ本当の純子と区別するためだとしても、今の純子にはとても寂しいことだった。
 「じゃあなぜボクは君のことを、本当の純子とボクの身体を奪った憎い奴だなんて思わなければならないんだ? 記憶をなくす前は友達だったんだろ? 教えてくれよ」
 「前のほうがおかしかったのよ。わたしにも、どうして前はわたしのことを怒ってくれなかったのかなんて分からない。隠してることなんて何もないわ」
 「そう…… 今日はありがとう。もう帰って」
 「わかったわ」
 純子は素直に従った。そのことで争って、更に険悪な関係にしたくはなかったからだ。
 「困ったことがあったらいつでも呼んでね。必ず来るから」
 「さよなら」
 愛理は階段の上から純子を見送った。
 見えなくなったあと、ドアが開いて、閉まる音を聞いた。
 部屋に戻ると、愛理はベッドに倒れこんだ。
 下腹部に手をやる。
 「生理か……」
 愛理はつぶやいた。
 

     第十五章

 愛理は少し早い目に着たのに、駅の改札では千鶴と里穂、良美がすでに待ってくれていた。
 「時間間違えた?」
 「ううん。まだ十分前だよ。だって愛理ひとりを待たせておくと、ナンパされてどっか行っちゃたら困るじゃない」
 良美が笑って応える。
 ナンパは冗談として、実際まだ記憶の戻らない愛理のことが心配で、みんな早めに来ていたのだ。
 なんとなくそれが分かって、愛理はうれしかった。
 「純子さんには電話した?」
 千鶴が愛理に耳打ちする。
 「昨日、直接会って話した。でも、謝らなかった」
 千鶴はきっとそれが理由だと思ったのだろう。
 「そう、それで元気ないの?」
 「違うよ」
 愛理はすぐに否定した。
 「じゃあなんで?」
 千鶴は再び尋ねた。
 愛理は真っ赤になって小声で答える
 「せ、生理になって……」
 「せ・い……」
 と言いかけてやめたのは、両脇で聞き耳を立てていた、里穂と良美だ。
 「どうしたの? そんなに恥ずかしがって、まるで初めて見たいに」
 「初めてじゃないと思うけど、今までのこと覚えてなくて……」
 「じゃあ、初めてといっしょだね。お祝いしなきゃ」
 里穂が明るく提案した。
 「えーっ!」
 
 お祝いは後にして、みんなはまずショッピングへと繰り出した。
 「愛理はどんな服にするの?」
 「分からないよ…… いつもどんな服着てたとか…… ボクいつもどんなカッコしてた?」
 みんなが愛理の服装をジロジロ見る。
 「はい!」
 「里穂クン」
 良美が里穂を指名する。
 「今日はじめて、愛理のパンツルック見たよ。そういうのも似合うね」
 「当たり前じゃない。愛理はなんでも似合うのよ」
 千鶴が、自慢げに言う。
 「でも、お嬢様風スタイルがいいな」
 「良美の好みは聞いてません」
 ベージュ色の綿パンと薄い緑色のポロシャツという組み合わせだ。
 ズボンは引き出しの奥から発掘したものだ。きっとずっと穿いてないんだろうなと感じていた。
 今の自分はスカートを穿くのがいやだ。男だったんだから当然だ。でもそれは、記憶をなくす前も同じはずなのに、以前はほとんどスカートを穿いていた。
 どういうことなんだ? 愛理の頭はわからないことに疑問符が渦巻いた。
 しかしそのことをきいて確認するわけにもいかず、解決されないままショッピングは続いた。

 いくつかの買い物をした後、休憩に喫茶店に入った。
 注文を考えていると、
 「カキ氷にしよう。愛理は宇治金時ね」
 良美が仕切る。
 「なんで?」
 愛理が理由を尋ねる。
 「宇治金時は嫌い?」
 「そんなことはないけど……。なんで勝手に決めるんだよ」
 「だって初めてのときは、赤飯でお祝いするのよ。こんなところで、赤飯食べたくないでしょ。だから、他に小豆のものとなると、宇治金時。決まり!」
 忘れてたことを思い出させられて、愛理は赤面する。
 「もう」
 膨れて見せたが、愛理はそうやってかまって貰えるのが、なんとなくうれしかった。
 それは愛理にとって不思議な気持ちだった。
 男の自分の意識としては、女の子たちに遊ばれるようなことは、プライドが許さないはずなのに、今はそんなことはなかった。
 どうしてなんだろう? ふとした疑問がだんだんと広がってゆく。
 記憶をなくす前は、スカートしか穿かなかったり、委員を進んで引き受けたり、みんなに好かれるように振舞っていたりと、入れ替わる前の男の子としての記憶しかない今の愛理にとっては考えられないことばかりだ。
 みんなのかき氷がそろったところで、食べ始める。
 愛理は、かき氷を食べながらも、考える。
 自分の書いた字が女の子らしいかわいい字だったり、ふとした仕草が女の子ぽかったり、女の子と一緒にいるのに異性だと意識しなかったりと、そういうことは二年間自分が女の子として、女の子の中に溶け込むように努力していたから? それがもう身体にしみこんで、それが自然になったから?
 愛理にはその答えは分からなかった。しかし、そう考えるのが自然な気がした。
 でもどうして、そんなことしたのだろう? 本当の愛理は、どちらかと言えば男っぽい荒い性格だったらしい。その性格を真似ていたら、苦労せずに暮らしていたのに、なぜそんなことをしたのだろう?
 それが核心のような気がした。
 しかしそのことをそれ以上考えようとすると、急に頭が痛くなった。
 頭を押さえる。
 「愛理、頭痛? かき氷食べて起こる頭痛はね、三叉神経ってのが間違えて、情報伝えるせいなんだよ」
 良美がひけらかす。
 愛理はそれには反応せず、頭を押さえ続けえる。
 隣に座る千鶴がかき氷のせいではないことに気付いて、慌てて愛理の顔を覗き込む。
 「愛理、大丈夫? 頭痛いの? ケガしたところ?」
 千鶴の問いかけに、愛理は小さく首を横に振る。
 他の二人も愛理のそばに寄り添う。
 「どこが痛いの?」
 再び尋ねる。
 「……」
 愛理の口が動いたが、声は聞き取れない。
 「救急車呼ぼうか?」
 良美が言う。
 「もう大丈夫」
 今度はかすかに聞き取れた。
 「ホントに大丈夫?」
 千鶴が確認する。
 数秒の時間を置いて、愛理は顔をあげる。
 「ごめん心配掛けて」
 「そんなのいいわよ。ホントに大丈夫なの?」
 念を押す千鶴。
 「しつこいなぁ。ホントもう大丈夫だって」
 「どうしたの?」
 「いろいろと考えて、思い出そうとしたら、急に頭が痛くなって」
 「何考えてたの?」
 里穂の言葉に千鶴は、また手が出る。
 「イターいぃ」
 「愛理がまた頭痛くなったらどうするのよ」
 「ごめんなさい」
 里穂も理解して謝る。
 「千鶴はいつも手が出るね。痛かったでしょ。わたしのせいでゴメンね。里穂」
 愛理が里穂の頭を撫でる。
 「ううん。わたしこそ…… 愛理、今、『わたし』って言った」
 里穂が、うれしそうに言った。
 愛理もその言葉が自然と口から出たことに気付いて驚き、口元に手をやっている。
 「わたし、『わたし』って言えるようになった」
 愛理はその言葉を繰り返した。
 以前は抵抗があった言葉なのに、今愛理は抵抗を感じなかった。それはきっと、記憶をなくす前のその言葉をずっと使っていた状態に近づいているのだ。そう思うと愛理にはなんだかうれしく感じられた。
 「記憶戻ったの?」
 千鶴がきいた。
 愛理は少し考える。
 「それはまだみたい」
 みんなは残念がる。
 「いいじゃない。一歩前進したんだから。きっともうすぐ記憶は戻るわよ。愛理もあまり考えすぎないで。お医者さんもそう言ってたでしょ」
 愛理はうなずいた。
 みんな席に戻る。
 「でもひとつ聞きたいんだけど、わたしが記憶をなくす前と後では、性格とか趣味とか変わったと思う?」
 愛理が尋ねた。
 みんなは顔を見合わせる。
 「『ボク』って言葉を使ったりして、男の子っぽいなって思った以外は、変わってないと思うけど」
 良美が答えた。
 他の二人も異論はないようだった。
 「ありがとう」
 それはつまり、入れ替わりのすぐ後から、自分は女の子として生きようとしていて、記憶喪失になるころには、その生活に慣れていた。そういうことなのだと愛理は思った。
 なぜ女の子として生きようとしたのか、そのヒントをくれるのは中学時代を知る人間に聞くしかなかった。
 純子、もしくは裕一郎だ。

 喫茶店でゆっくりと休憩した後、残りの買い物は水着となった。
 水着売り場の大半は、女性用水着が占めていて、下着売り場に行ったときほどではないけども、愛理は目のやり場に困っていた。
 三人ともきゃあきゃあ言いながら、水着を選んでいる。
 愛理はその場を離れ、すぐ近くの壁にもたれかかった。
 考え事をしながら、みんなの様子を眺める。
 「純子か裕一郎か」
 愛理は小さくつぶやいていた。
 しばらくして、愛理に気付いたみんなが、水着を手に持ったまま愛理によってきた。
 「具合悪いの?」
 「ううん」
 そうと分かると、良美が水着を突き出してくる。
 「ねえ、これなんかどう?」
 ビキニを突き出してくる。
 確かに良美なら似合うかもしれなかった。でも、それを勧める勇気はなかった。
 「ちょっと、大胆じゃない?」
 「じゃあ、こっちは?」
 真っ青な水着に、赤と黄色で文字がデザインされている。ハイレグ気味だったが、大胆というほど切れ込みが激しくはなかった。
 「それならいいんじゃない」
 愛理がそう応えると、良美はその水着を愛理の体に押し当てる。
 「えっ」
 その意味を理解して、愛理は焦る。
 「よし」
 「決定!」
 三人が顔を見合わせてうなずいた。
 「ちょっとぉ。わたしの? 海には入らないんだよ」
 「海辺でも、水着は着るの」
 「いやだよ。こんなハイレグ」
 「それは、自分が着れないようなものを、人に勧めたってこと?」
 良美が意地悪に言い寄る。
 「そんなことないけど。恥ずかしいよ」
 「みんなでハイレグにするから。一緒に着ようよ」
 良美が迫る。
 「許してよ」
 「ダメ」
 「泣いても?」
 と言って、愛理は泣きそうな表情を見せる。
 「それでもダメ」
 良美はそう言ったが、千鶴と里穂は許さざるを得なかった。
 「これ以上愛理を泣かせないで」
 墓地で号泣した愛理の姿を思い出すと、些細な涙でさえもう見たくはなかった。
 「何それ。わたしだけ悪者?」
 「だって、もう愛理の涙を見たくないもん」
 里穂が泣き出しそうな勢いで、良美に訴える。
 
 なんとかスタンダードなスタイルという点は譲歩してもらったが、結局愛理が選ばされたのは、去年に比べてかなりカラフルな柄の水着だ。
 四人は紙袋を手に下げて、目的地をまだ決めず、ぶらぶら歩いていた。
 「この後どうする? どこか寄る?」
 「荷物あるし、今日はもう帰ろうか。愛理家まで送って行くわ」
 「……」
 「愛理? どうしたの大丈夫?」
 千鶴が愛理の顔を覗き込む。
 「寄りたいところがあるんだけど……」
 申し訳なさそうに、愛理が言う。
 その行き先は……


     第十六章

 学校だった。
 愛理は裕一郎と話がしたかったのだ。
 それで彼が所属するクラブ、野球部が練習している学校の第二グランドへとやってきたのだ。
 「あー、やってるやってる」
 「そりゃやってるわよ。確認してからきたんだから」
 里穂の言葉に、良美が突っ込む。
 愛理たちは、裕一郎の姿を探して、しばらく外野の端から練習の様子を眺めていた。
 ノックをする音が響いている。
 捕り損ねたボールを追いかけるナインの姿が目立つ。
 「へたっぴ」
 思わず言葉に出してしまう愛理。
 「これじゃ、甲子園はおろか、地区大会一勝も難しいわね」
 「今年も一回戦敗退だもんね」
 「でも三年前は甲子園出たのにね」
 「それにしても、田中クン、いないよね」
 目的の姿が、なかなか見当たらない。
 「休みかな」
 「そんなぁ、せっかく来たのに」
 「聞いたほうが早いね」
 そう話しているところへ、ボールが転がってくる。
 愛理がボールを拾う。
 啓太としての記憶の中では、最後にボールを触ったのは、そんなに前ではないはずなのに、なんだか懐かしさを感じた。不思議な懐かしさだ。
 荷物を里穂に預けると叫んだ。
 「いくよー」
 愛理は大きく振りかぶった。
 そして右方向へ身体をひねり、左足を両腕で胴体へ抱き寄せるようにする。
 重心を前方に移動させると、左足を一気に踏み出し、サイドスローで投げた。
 ボールは構えていたサードの横を通り抜け、キャッチャーの目の前にワンバウンドして、ミットに収まった。
 「愛理すごい……」
 良美はつぶやいていたが、後の二人はそれさえもできず呆然としていた。
 グランドの全員も、愛理のほうを見ている。
 小さなグランドとはいえ、外野の端からホームまでほとんど届いていた。しかもそれを投げたのは女の子だ。さらに、きちんとしたサイドスローのフォームで投げたのだ。
 『しまった。ついついやってしまった』
 野球をしていたのは啓太であり、本当の愛理なら、いわゆる女の子投げをしていたはずだ。
 愛理は後悔したが、これほどはっきりやってしまったからには、どうしようもない。
 「あっ! 双海さん!」
 野球部員たちが、投げた人物が愛理だと気付く。
 その場から大声で呼びかける。
 「双海さん、すごい!」
 「野球やってたの?」
 「リトルリーグ? それともソフトボール?」
 ソフトボールをサイドスローする人はいないと思うので、それを言った奴は投げるところは見ていなかったのだろう。
 愛理は、答えに窮する。
 「何かやってたのかなぁ。記憶ないから分からない」
 それで、そう逃げることにしたのだった。
 愛理たちはベンチの方に歩いてゆく。
 「ところでさぁ。 田中君休み? 田中裕一郎」
 「今日は、中学の友達の墓参りだって」
 野球部員のひとりが応える。
 「確認したんじゃなかったの?」
 千鶴が良美に文句を言う。
 「いやあ、だって田中クンは練習中だったらケータイ出ないと思って、軽音楽部の友達に連絡して、野球部が練習やってるかどうかしか聞いてないもん」
 良美が弁明した。
 裕一郎が行っているのは、もちろんそれは啓太の墓参りだろう。
 愛理は知らなかったが、中学時代の親しい友達が集まって墓参りをしていたのだ。それは去年も同じだ。
 「無駄足だったね」
 千鶴はそう言ったが、墓参りのことを知っただけでも愛理は良かった気がした。

 雨が降りそうになってきた。
 誰も傘を持ってなかったから、愛理は駅で良いと言ったが、三人とも家まで送ると言ってきかなかった。
 電車に乗ってから、愛理はあまり話さず、降りる駅についた。
 「ねぇ。田中君の携帯番号って誰か持ってる?」
 「わたしは登録してるけど。今から会うつもり? 雨になるよ」
 良美が言う。
 「今日どうしても確認したいんだ」
 言うと愛理は携帯電話を取り出し、良美から番号を教えてもらう。
 「ありがとう。もうここでいいから」
 言って、愛理は裕一郎の番号をコールした。
 「双海愛理です。今いいかな? 教えてほしいことがあるんだけど、どこにいますか? ……じゃあ行くから待ってて」
 携帯をしまって、愛理は裕一郎のいるところへ向かおうとした。
 「やっぱりついていくわ」
 言ったのは千鶴だが、他の二人も同じ気持ちのようだ。
 「でも」
 「だってほっとけないもの」
 そういう三人を愛理は断りきれなかった。
 四人は裕一郎のところへ移動を始めた。駅前の商店街で十分ほどで歩いていけるところだ。
 裕一郎は啓太の墓参りの後、参列したみんなと電車で帰ってきて、駅前で解散したところで、本屋で立ち読み中だった。
 愛理たちが本屋に到着したとき、裕一郎は入り口付近で雑誌を読んでいた。
 喪服代わりの制服を着ている。
 「田中君」
 愛理は呼びかけた。
 裕一郎は、雑誌を棚に戻すと、振り返って言う。
 「教えてほしいことって何」
 挨拶も抜きでいきなり用件だ。仕方なしに付き合ってるといった感じが伝わる。
 「今日は啓太のお墓参りだったんだね。啓太にそんな友達がいてうれしいよ」
 「なんでお前が、そんなこと言うんだ」
 疑問と言うよりは、文句に近い言葉だ。
 「ちょっと何よその言い方。愛理が啓太クンのことどれだけ……」
 千鶴が裕一郎に詰め寄る。
 それを愛理が遮った。
 愛理が流したあの涙は、啓太として本当の純子のために流したものだ。それを理由にしたくはなかった。
 「二人だけで話させてもらえる」
 愛理は強い口調で千鶴に言った。
 口を挟まれたくなかったし、聞かれたくない話になるかもしれないと思ったからだ。
 普段の愛理と違い、真剣な顔が怖さをも感じさせて、千鶴たちはそれ以上、口を挟めなかった。
 愛理と裕一郎は、道路脇の人の少ない場所へと移動した。
 「それで何を聞きたいんだ?」
 「啓太が死んでから、わたしどう変わった? わたしが話してたこととかある? それに純子のことも」
 「純子のことは純子に聞けばいいだろ。なんなら全部」
 「純子とはケンカしちゃって…… でも、純子の話には納得できないところがあって、それで、どうしても田中君にも聞きたかったんだ」
 「ずっとお前を観察してたわけじゃないから、噂と又聞きになるけどな」
 裕一郎はそう断ってから、話し始めた。
 「啓太が死んだ次の日は、俺も見たけどお前も純子もふさぎ込んでたな。純子は分かるよ。幼馴染だからな。でもお前がふさぎこんでる訳が分からなかったよ。知り合いでもなんでもなかったんだからな。その次の日からお前は、学校を休んでた」
 裕一郎はそこでいったん言葉を切った。
 「怒るなよ。これはうわさだからな。啓太が死んだときお前と純子が一緒にいたから。どっちかが殺したんじゃないかって。純子とお前の力関係からして、お前が殺して純子に口止めをしたんじゃないかって噂が立ってたよ。それに直接お前に聞いたやつの話じゃ、お前は否定しなかったそうだ。それでみんながお前を疑ってるのを知って、純子はお前は悪くないって完全否定して、かばってた」
 裕一郎は真剣な表情だ。人殺しだと疑うような話を、本人に対してしているのだ。冗談では出来ないだろう。
 愛理は、自分が否定しなかったということが気になった。ほかは純子が話したところと符合する。
 「それから少しして、警察の検死っていうの? それの発表があって、ただの心臓発作だってことが分かって、お前の疑いは晴れた訳だ」
 啓太が死んだ原因は心臓発作とされているが、それは入れ替わりの魔法の作用のせいだ。その場にいた愛理と純子は、当然警察の事情聴取は受けていたはずだ。しかし、魔法の話なんて警察が信じるわけがないと思って、二人とも話してはいなかった。
 いやより正確に言えば、入れ替わっているのがばれることが怖かったし、それ以上に罪を問われるのが怖かった。だから魔法のことは話せなかったのだ。
 しかし、そのことは今の愛理の記憶にはない。
 「俺は今でも疑ってるがな」
 「え?」
 小さく声が漏れる。
 「啓太がそんな簡単に心臓発作なんて起こすはずがない。あいつは俺と一緒に野球やって身体を鍛えてたんだぞ。そんなあいつが心臓発作なんてありえない。きっとお前たちが何かを隠してるんだ。そうに違いない」
 「そのことを、わたしか純子に聞いたの?」
 「純子に聞いたら、何も隠してないと言ってた」
 「わたしには?」
 「その頃はお前とは口をききたくなかったからな。結局聞いてない」
 「わたしに聞いても、隠すかもしれないと思ったから?」
 愛理は矛盾を感じながらもそう聞いた。
 「ついでだから言っといてやるよ。その少し前に俺はお前に、告白したんだ。そしたらお前は断った。酷い言葉でな」
 それは本当の愛理が裕一郎にしたことだ。
 しかしようやくそのとき愛理は、裕一郎が他のクラスメイトと違い、愛理のことをあまりよく思っていないと感じていたことの理由が分かった。
 啓太として裕一郎は親友だ。たとえ自分のしたことでなくても、嫌われているなんてイヤだった。
 「ごめんなさい」
 「やめてくれよ。覚えてもないくせに」
 強い口調だ。
 「ゴメン」
 愛理はそのことについてはそれ以上何も言えなかった。
 少しの沈黙の後、先に口を開いたのは裕一郎だ。
 「もういいか?」
 まだ足りないと愛理は感じた。
 「その後わたしはどうだったの?」
 「夏休み中のことは知らない。他の誰も夏休み中はお前とは会わなかったらしくて、何も聞いてない。純子とは会ってたらしいけどな」
 そこが肝心なところなのに。愛理は心の中で残念がった。
 「それで夏休み明けにお前が出てきたときには、もう全く別人だった。記憶なくす前のお前と同じ感じだ。今もそう変わらんけどな」
 「わたしがなぜそうしたか何か話してなかった?」
 それが分かれば、記憶がもどるヒントになると感じた。
 「『純子のため』って言ってたそうだ。みんな訳が分からないって言ってたな。純子のためといえば、二学期になっても塞ぎ込んでる純子をお前が、気遣ったり励ましたりしていたな」
 「わたしが 純子を?」
 本当の純子と啓太の身体を死なせた純子のことを、自分が気遣っていた。愛理は、にわかにそれを信じられなかった。
 本当の体をなくした自分が気遣われるならともかく、罪を犯した純子を気遣うなんて、立場が逆だ。
 立場が逆……
 そう思ったとき、愛理はまた頭痛を感じた。


     第十七章

 ついに雨が降り出した。
 その場所は、商店街のアーケードの中だったので、傘はなくても大丈夫だったが、帰りには必ず必要になる。
 少し離れたところから、二人のことを見守っていた三人は、傘をどうしようかと考え始めた。
 「傘、買っとこうか」
 良美が言って、近くの店を指差す。
 雨が降り出しそうとあって、店先に傘をたくさんぶら下げたワゴンが出されている。
 三人はその店に向かった。
 「それにしても、田中君と愛理って何があったんだろうね」
 傘を物色しながら、里穂が疑問を口にする。
 「聞いたことあるけど、又聞きの又聞きくらい。きっとデタラメ。だって愛理からは想像できないもの」
 良美が言う。
 「だから、何があったの?」
 里穂がねだる。
 「告白した田中君を、罵ったそうよ。信じられないでしょ」
 良美はそう言って同意を求めたが、病院で中学時代のことを聞いたり、暴れた愛理を見ていると、そうかもしれないと二人は思ってしまう。
 「信じるの?」
 同意してくれない二人に、良美は驚く。
 「そういうわけじゃないけど。ねぇ」
 里穂が、千鶴に同意を求める。
 「昔は、昔だから」
 千鶴はそう言って、愛理を見た。
 不愉快そうな顔で腕組をして話している裕一郎の前に、背中を向けた愛理が、頭に手をやっている。
 その手が、喫茶店でかき氷を食べたときと同じようだと、千鶴が気付いたときだった。
 愛理の全身から力が抜けるように、崩れ落ちた。
 膝から落ちて、裕一郎にもたれかかるように倒れた。
 「タ、タイヘン」
 千鶴が叫んだ。
 良美と里穂が千鶴を振り返る。
 そしてその視線を追って、愛理が倒れたことに気付く。
 二人ばかりではない。周囲にいた人たちも、少女が倒れたことに気付いて、騒然となった。
 「愛理!」
 美少女にもたれかかられて、どうしたらいいのか分からずに慌てている裕一郎の元に、少女の親友たちが駆け寄る。
 「どいて!」
 千鶴は裕一郎を突き飛ばすと、愛理を抱きかかえる。
 意識はない。ただ、聞き取れない小さな声でうわごとをつぶやいている。
 「救急車。早く!」
 千鶴は誰にともなく、怒鳴る。
 「愛理しっかりして!」
 呼びかける声にも、愛理は反応しない。
 「愛理」
 里穂と良美が順に声を掛ける。
 「田中。あんた愛理に何言ったのよ」
 里穂に普段は見せない形相で睨まれた裕一郎がたじろぐ。
 「やめなさいよ。田中クンが悪いわけじゃないでしょ」
 「だって……」
 里穂は誰かを責めずにはいられなかった。
 自分たちは愛理を止めることができたのに、止め切れなかった。その責任を誰かに押し付けずにはいられなかったのだ。
 「俺は悪くないぞ」
 裕一郎は怖くなって、意味のない言い訳をする。
 「愛理、何か言ってるよ」
 良美も愛理の口元に気付く。しかし、その声は聞き取ることはできない。
 「愛理、目を覚まして」
 千鶴が、愛理の身体を揺さぶる。
 愛理の顔が苦痛に歪んだ。
 しかし、それが心の苦痛によるものだと、誰が知ろうか。
 「愛理……」
 千鶴が再び呼びかける。
 そして千鶴たちは見た。
 硬く閉じられた、愛理の目尻から、涙がこぼれるのを。
 そして、口元が動く。
 「…… 許して…… 愛理……」
 千鶴たちが聞き取れたのはその言葉だけだった。
 自分の名前を口にしたことを不思議に思う間もない。みんなが見守る前で、愛理の涙は激しく溢ふれ出した。
 千鶴と里穂が、墓地で見た愛理の涙。そのときと同じように、止まることのない涙が流れた。
 わずかな時間千鶴は、腕の中で泣く愛理を見守った。
 「ああぁぁぁ」
 愛理は泣き声とともに目を覚ました。
 見開いた目からも、やむことなく涙がこぼれる。
 「わたしが悪いのに。とんでもないことを…… 謝らないと……」
 抱いている千鶴の腕から、愛理は逃れようと身体をくねらせる。
 「愛理落ち着いて。話を聞いて」
 千鶴はそう言って、愛理の両肩を掴み、真っ直ぐに愛理を見つめる。
 しかし、愛理は千鶴の手を振り払うと、立ち上がる。足元がふらつく。
 千鶴は愛理の手を取り支えたが、同時に愛理を捕まえた形になった。
 「離してよ。わたし、純子に謝らないと」
 「まず、お医者さんに診てもらってからよ」
 「どこも悪くない。純子に謝らないといけないんだ。お願いだよ」
 今度は、愛理が真っ直ぐに千鶴を見る。その目からは止まらない涙が溢れている。
 千鶴の手から力が抜ける。
 そして、愛理はくるりと振り返ると、走り出した。髪の毛がふわっと広がり、背中で揺れていた。
 「どうして、行かせたのよ」
 良美が言う。
 「だって、あの目には弱くて……」
 千鶴が言い訳をした。

 千鶴たちは、買い物袋を裕一郎に押し付けて、愛理の後を追った。
 商店街のアーケードを抜けると、雨がしとしとと降っている。
 その雨の中、遠くに走ってゆく愛理の姿が見える。
 「愛理足速いから。追いつけないよ」
 里穂が弱音を吐く。
 このまま追いかけても、どこかで見失ってしまうのが落ちだ。
 それはあとの二人も同じ意見だ。
 「純子さんのところに向かってるはずだから、まず連絡してみる」
 千鶴は、携帯電話をかける。
 「呼び出すけど、出ないよ」
 何か方法はないかと、千鶴は里穂と良美の顔を窺う。
 しかし、妙案はないようだ。
 「そうだ。田中クンなら、家知ってるはずだわ」
 千鶴がが思いついて声を上げる。
 そして、来た道を取って返した。
 二人も後に続く。
 元の場所に戻ると、四人分の荷物を持った裕一郎がそのまま立っている。
 「おい。これ何とかしろよ」
 戻ってきた三人を見て、裕一郎は買い物袋を突き出して文句を言う。
 その言葉は無視して、千鶴は訊く。
 「純子さんの住所分かる?」
 「山方? 番地までは覚えてないけど、場所なら分かるよ」
 しばらく千鶴は考える。里穂と良美を交互に見比べる。そして考えを決めたようだ。
 「里穂は、ここで荷物預かってて」
 というなり、裕一郎の持っていた荷物を、里穂に押し付ける。
 「えーっ!」
 と言う抗議には、
 「あなたが一番足遅いでしょ。愛理と一緒に海に行きたかったら我慢しなさい!」
 ピシッと言い切った千鶴に、里穂は口答えができない。
 「一緒に来て」
 千鶴は裕一郎の腕を引っ張る。
 「あ、あっと。その前に傘よ」
 千鶴はさっき見ていた、店で安い傘を三本まとめ買いする。
 「代金は後で徴収するから」
 傘を配りながら言う千鶴。
 「俺は持ってたのに」
 文句を言う裕一郎を、千鶴は睨みつける。
 「行くわよ」
 小声で文句を言っている裕一郎にはお構いなく、千鶴は愛理を追って走り出した。

 純子は、スーパーの帰り道、右肩にバッグをかけ、右手に傘を持って、左手にレジ袋をふたつ提げている。
 バッグに入れた携帯電話が、鳴っていたのに気付いたが、帰ってから掛けなおそうと、放置していた。
 『ひょっとして、電話は愛理じゃないわよね』
 ふと心配になって、バッグに視線をやるが、相手の名前が見えるわけはない。
 雨が激しくなってきた。
 純子は、傘を深めに持ち直す。そして電話のことも気になったから、気持ち歩くのを早めた。
 五分ほど雨の中を純子は歩いた。
 もうスカートの裾や、足はびしょ濡れになっていた。
 最後の角を曲がり、家までは五十メートルほどの直線の道だ。
 傘を持ち直したとき、傘の縁が揺らいだ瞬間に、純子は遠くに後姿の足元を見た。
 しかし、自分以外の人間が歩いていてもおかしくない時間だったから、純子は気にも留めなかった。
 そして、家まで後二十メートルほどになったときだ。
 再び傘が揺らいで、同じ場所に同じ姿を見た。今度は横を向いている足元だ。その足は純子の家の方を向いていた。
 気になった純子は、傘をもう少し上げて驚いた。
 傘も差さず、雨に打たれ続けて、全身びしょ濡れになった愛理が立ち尽くしていた。
 「愛理!」
 雨が街を叩く音が激しく、そのつぶやきは愛理には聞こえたはずはない。
 しかし、純子の家を見つめていた愛理は、純子へとゆっくりと向き直った。
 その顔は泣いていた。
 雨にぬれた頬に、どれだけ涙が流れていたかは分からない。
 愛理は、純子へ向かってゆっくりと歩き出した。
 純子は、両手に荷物があって速くは走れないが、可能な限りの速さで走った。
 そして、ふたりの間が縮まり、あと少しで、触れ合えるというとき、愛理が突然、地に伏した。
 両ひざを着き、両手を着き、額までも地面に着きそうだった。
 純子は持っていた荷物を放り出して、愛理に駆け寄る。
 傘を差し伸べ、手をとり愛理を起こそうとした。
 「ゴメン! ボク、愛理にとんでもないこと言ってしまった。ホントにゴメンなさい。あああぁぁぁ……」
 愛理は純子の前で、啓太に戻って謝った。
 「わたし、怒ってないんだから。愛理は何も間違ったことしてないんだから」
 純子が慰めて、愛理の腕を取り、起こそうとする。
 その手を愛理は振り払う。
 「そんなの分かってる。愛理が怒らないことは、分かってるよ。けどだからって、愛理に『人殺し』だなんて…… 大切な友達にそんなこと言うなんて、そんなの許されないよ。人間として最低だよ。ホントにゴメンなさい。うぅぅ……」
 「でも、わたしのせいなんだから」
 「違うんだ! 愛理だけが悪いわけじゃないんだ。きっかけは愛理だったかもしれないけど、二回目の入れ替わりをしたがったのは純子だし、ボクもしたいと思った。みんなが招いた結果なんだ。なのに愛理だけがひとり背負って、そんな愛理にボクは酷いことを言ってしまった。ボクは自分の罪を忘れてしまって、愛理が言うままに愛理を責めてしまった。ボクが自分にも罪があることをちゃんと話していれば、愛理がひとりで責任を感じることはなかったんだ。愛理だけに罪を着せてボクは逃げようとしてたんだ。軽蔑されるべきはボクなんだ。むしろボクが殴られなきゃいけないんだ」
 「啓太君」
 純子は傘も放し、両手で愛理を抱きしめた。
 二人の全身を雨が打ちつける。
 「ボクは事故に遭った日、一緒にお墓参りをしようと思ったのは、愛理がひとり罪を感じることをもうやめてほしかったんだ。でもそれはボクがひとり罪を逃れていることが苦しくて、耐えられなかったからなんだ。それを逃れるために愛理をお墓参りに誘ったのに、ボクが事故に遭って、記憶なくして愛理に迷惑をかけただけじゃなく、自分の罪を忘れて、愛理を『人殺し』だなんて…… 全部ボクのせいじゃないか。全部、ううっ」
 「もういいよ。啓太君。わかったから」
 「ボクは自分が許せないんだ」
 言って愛理は、アスファルトを叩いた。
 激しく、水が弾け飛んだ。
 愛理は今更ながらに、純子を雨に打たせ続けていたことに気付いた。
 「愛理ー!」
 遠くで呼ぶ声がする。
 「愛理ーっ!」
 違う声が呼ぶ。
 愛理は振り返った。
 千鶴と良美が走ってくる。その後ろに走るのをやめた裕一郎が、歩いて向かってくる。
 「愛理!」
 再び叫んだのは、千鶴だった。
 「ほら、お友達が来たわよ。愛理に戻って」
 純子は、愛理の手をとって立たせた。
 「愛理。大丈夫? 頼むからお医者さんに見てもらって」
 「千鶴。わたし、純子に謝りきれないよ」
 愛理は、千鶴の言葉には応じず、涙を流して千鶴に訴える。
 その愛理には千鶴は勝てない。優しく愛理の肩に手をやる。謝ってくれたことはうれしかったが、詳しいことが分からない千鶴は、アドバイスができるわけもなく、困惑の表情を純子へと向けた。
 「とにかく家に入って。もうずぶ濡れだけど」
 純子は、玄関の鍵を開けると、みんなを家の中に招き入れた。

 純子は、千鶴たちにタオルを渡す。
 「愛理は、着替えて。服貸してあげるから」
 「うん」
 自分の格好を見て、愛理は頷いた。他人に服を借りるなんて、悪い気がして、嫌だったが、泥だらけの姿では、断りきれるものではなかった。
 「純子さん、お家の人は?」
 千鶴が尋ねる。
 「家の両親は共働きで、昼間はわたしだけなの。テレビでも見てて。あれ? 田中君は?」
 「帰っちゃった。女の子の家には上がりたくないって。へんなとこ硬いのよね」
 あきれたと仕草で示しながら、千鶴が言った。
 「千鶴」
 良美が肘で小突いて、千鶴がうなずく。
 「それから、純子さん。今日愛理、ひどい頭痛がしたり、気を失ったりしてるの。だからお医者さんに見てもらったほうがいいと思うんだけど」
 千鶴の言葉に純子は驚いて、愛理のことを見た。
 「愛理……」
 何かを言いたげだったが、純子は言葉を切って、千鶴たちに向き直った。
 「分かったわ。着替えさせたら、病院に連れて行くから、心配しないで」
 「じゃあ、わたしたちは……」
 言いかけたところに、千鶴の携帯電話が鳴った。
 「あっ……。っっっ」
 焦った表情で電話に出たとたん、千鶴は首を竦める。
 甲高い怒鳴り声が漏れて聞こえる。
 『いつまで待たせるのよ。こっちは大変だったんだから、もう。救急車の人に説教されたり、四人分の荷物もって見せ物みたいにずっと突っ立って……』
 「里穂、ごめんなさい。わたしのせいで、迷惑かけて。ホントにゴメンネ」
 千鶴の手から、携帯電話を取って、愛理は謝る。
 『あ、愛理は悪くないよ。謝らないで。それよりもう大丈夫なの? 頭痛くないの?』
 「うん。もう大丈夫。心配しないで。念のために、お医者さんに見てもらうから」
 愛理は携帯電話を千鶴に返した。
 その後、千鶴は五回ゴメンを言ってから、電話を切った。
 はぁ、とため息をつく千鶴。
 「千鶴にもいっぱい迷惑かけてゴメンネ」
 「いいのよ。記憶戻るまではちゃんと面倒みるって言ったでしょ」
 「じゃあ、愛理の記憶戻ったことだし、千鶴はお役御免ってことで。さあ帰りましょ」
 良美が千鶴を促した。
 「それが、まだ高校のことは、ほとんど思い出せてないの」
 「「えーっ!」」
 千鶴と良美がみごとにハモった。

 その後、愛理は念のため、二泊三日の再入院で精密検査を受けた。
 検査結果は問題はないと診断されたが、友達を振り切って雨の中を走り回ったことは、厳しく叱られてしまった。途中で倒れでもしたならどうなっていたか分からない。それを聞かされて、愛理は激しく反省した。この愛理の身体に何かあったら、純子が悲しむ。それを改めて気付かされた。
 入院生活はというと、前回とは違い再入院の連絡を受けたクラスメイトたちが、まるで義務のように入れ代わり立ち代り見舞いに訪れて、退屈する暇もなかった。
 退院の前に看護師さんが、見舞い客数の記録更新ですと笑っていた。
 退院の翌日、退院祝いと称して家に訪ねて来たのは、良美たちだ。彼女が千鶴と里穂を誘ってやってきたのだ。
 預かってもらっていた水着とかの買い物の荷物を渡される。
 「高校での記憶はまだ戻ってないの? よね」
 千鶴がその話題を持ち出すと、愛理は俯くように頷いた。
 「あれからは、何も思い出さない。でも、記憶が戻らなくてもいいかなって思っているの」
 俯いたままで、愛理は応えた。
 「そんなのイヤよ。いろんな思い出が消えちゃうなんて」
 「消えてなんかないよ。わたしは憶えてなくても他のみんなは憶えてるじゃない。それにみんなとまた友達になれたから、これからだっていろんな思い出は作れるでしょ。それに、戻らないって決まったわけでもないし」
 笑顔で言う愛理に、三人は頷いた。
 話が途切れたところで、良美が話題を変える。
 「ところで愛理。病院では他の子たちがいたから言えなかったんだけど、何か問題抱えてるんなら相談に乗るよ。親友なんだから」
 良美が言う。
 「純子とのことなら、もう謝って解決したじゃない」
 「わたし、千鶴から聞いたの」
 良美の後ろで千鶴が「ごめんなさい」をしている。
 「愛理、純子さんに『人殺し』って言ったんだよね。それに、記憶戻ったとき純子さんは悪くないって言ったよね。それって、啓太君が死んだ責任が愛理にあるってこと? 愛理が記憶なくしたのって、頭打ったからじゃなくて、啓太君が死んだときからずっと心にストレスを感じてたからなんでしょ。わたしたち、絶対に喋らないから、ホントのこと言って、たとえどんなことでも」
 予想だにしてなかった話に愛理は戸惑ってしまう。
 良美は数々の状況から、愛理が啓太を殺したとでも推理したのだろう。
 二回目の入れ替わりで、今の愛理つまり啓太だけでも反対していれば、啓太の身体が死ぬことはなかった。しかし、愛理だけが悪いわけでもない。三人みんなが悪いのだ。愛理がストレスを感じていたのは、自分が悪いといっている純子に対して、自分も悪いと言い出せなかったことだ。
 良美の推理は正しくはないが、愛理にも責任があるという点では間違っているとはいえない。
 「隠してもダメだね」
 愛理は普段使わない、低いトーンの声で話し始めた。
 「わたし、ホントは、魔法使いなの。それで、純子と一緒に魔法使ってるところを、啓太に見られたから、死んでもらったの。あなたたちにも知られちゃったから、死んでもらおうかな」
 三人とも顔を引きつらせている。
 「まず、良美から」
 愛理は言うと、良美の顔の前で、パンと手を叩いた。
 「キャー」
 三人の絶叫があがる。
 予想以上の反応に、愛理も驚いている。
 良美は完全に腰が抜けていた。
 「怖かった? 夏だから怖がらせようかと思って……」
 「冗談? 冗談よね。愛理」
 里穂が半べそを掻きながら訊く。
 「魔法なんかあるわけないじゃない」
 「酷いわよ。愛理。まじめに相談に乗ってあげようと思ったのに」
 良美が怒って言う。
 「どっちが酷いの? わたしをまるで犯罪者扱いして。啓太の死因は、警察も調べて心臓発作って分かってるの。わたしが『人殺し』って言ったのは、あの日純子が啓太を呼び出さなかったら、啓太は死ななかったかもっていうことを大げさにとってしまったのよ。でもそれはわたしが啓太を紹介してって言ったから純子が呼んでくれたの。だから純子は悪くないって。それだけのこと。わたしが悩んでたのは、純子が自分が呼ばなければ啓太は死ななかったかもってずっと後悔してたのに、会いたいって言ったのはわたしだから、わたしのほうが悪いっていうことを、純子にちゃんと言えなかったこと。どう納得した?」
 その話は、啓太の死について事情聴取を受けるとき、入れ替わりの魔法のことなんて話せないから、純子と口裏合わせのために二人で考えたことだ。それに今の状況に合うようにその後のことを付け足したものだ。
 どれだけ心を許せる親友ができたとしても、入れ替わりのことは絶対に話さないと心に決めていた。
 しかし、啓太の死に関して純子たちとの間で愛理が起こしてしまったことを、千鶴たちにはちゃんと説明しないといけないと思ってはいたが、入れ替わりのことを話さず、どう説明したらいいかと悩んでいた。みんなが何処まで知っているのか、愛理には分からなかったから、こんな形で誤解していても、それは愛理にとって説明しやすくなってよかったことだった。
 「そうよね。愛理が人殺しなんてするわけないもんね」
 良美が照れ笑いしながら言った。
 「やっぱりそこまで思ってたんだ。良美絶交」
 冗談で言っていることは、愛理の顔が笑っていることで分かる。
 「いやーん。許して愛理様。委員長様」
 愛理の脚にすがり付いて謝る良美。
 「じゃあ、お願い聞いてくれたら許してあげる」
 愛理の表情が真剣なものになった。
 「何でも聞きます」
 良美が居住まいを正す。
 「今度、海行くときにさあ、純子も呼びたいんだ。いろいろ迷惑掛けちゃったからね」
 「いいけど。来てくれるかな」
 「それはわたしが説得するから」


     第十八章

 真っ青な空に白い雲が浮かび、穏やかな波が寄せては帰る青い海と砂浜には人が溢れていた。
 「すごい人だね」
 誰かのつぶやきに愛理は頷いていた。
 愛理のほかは千鶴、里穂、良美と同じクラスの女子二人と男子四人、それに純子がいた。男子の中に裕一郎はいない。
 みんな水着姿だったが、愛理だけはその上にTシャツとランニング用のショートパンツを穿いていた。
 「あそこなら、シート二枚敷けるんじゃないか」
 言うが早いか、男子たちが早速場所取りに走る。
 パラソルを立て、それをはさんで二枚のレジャーシートを敷きはじめる。
 愛理たちが到着したころには、それは完成していた。
 「ちょっと、ちゃんと隣の人たちに断った?」
 愛理が尋ねると男子が首を横に振った。それで両隣の人に伺いを立てる。
 「すみません、ここ良かったですか?」
 一方は家族連れで来ている留守番のお父さんという感じの人、一方はカップルできているようだった。
 愛理の笑顔に、どちら側も即座に「どうぞ」と返事があった。カップルのほうのカレはカノジョに肘鉄を食らっていた。
 「さすが委員長。ノーとは言わせぬ、かわいらしさ」
 「そんなこと言ってないで、これ膨らませて」
 千鶴が男子にぺしゃんこのビーチボールを手渡す。
 一分ちょっとでそれを膨らませると、駆け出して行った。
 「周りに迷惑かけないでよ」
 「愛理も行こうよ。ビーチバレーならできるでしょ」
 「うん」
 愛理は立ち上がると純子の手を引いた。そして身体を引き寄せる。
 純子はびっくりして愛理の顔を見ると、キスしそうなくらいの近さだ。
 「お願いがあるんだ。純子にはボクの友達みんなと親しくなってほしいんだ。今日来てるのは特に親しい子達だから」
 少し声を潜めて言う愛理。
 「もちろんいいけど、どうして?」
 「こんなに人がいると話せないよ。だから後で話すよ」
 愛理は言うと今度は純子の手を引いて、走り出した。
 待っているみんなに合流して、ボールを打ち合うだけのビーチバレーを汗だくになるまで楽しんだ。
 それあと、みんなが海に入っているとき、愛理はパラソルの下に座って、楽しそうなみんなを眺めていた。
 左右のカップルと家族連れは、もう帰ってしまっていない。夕方に差し掛かってきて、みんな帰り始めているのか、浜辺全体の人の数も減ってきてるようだった。
 愛理の横に海から上がってきた純子が座った。
 「今なら話せる?」
 愛理は周りを見回して、頷いた。
 「今日来ているみんなの名前は覚えた?」
 「だいたい…… それが何か?」
 愛理は少し間を空けた。
 そして、純子の問いに答えず言った。
 「入れ替わりって一年経てばもう一度できるんだろ。だったら今もう一度入れ替われば、愛理は元に戻れるよね」
 愛理がそんなことを考えていたと知って、純子は驚いた。
 「でも、あなたは啓太君には戻れないのよ。純子になるのよ。ホントの純子には悪いけど、あまり可愛くないでしょ。愛理のままなら、恋人にできる男は選り取り緑だし」
 「男となんか付き合うつもりはないよ」
 「学校だって、わたしの入ったところはレベルも平均程度の学校で、あなたが頑張って入った学校は進学校なのにもったいないわよ。それに今更入れ替わっても、わたしはそっちの学校にはついて行けないし」
 「だって、この身体は愛理のものだろ! 今ならちょうど記憶喪失だしごまかせるよ。それにボクが恥ずかしいのを我慢して、女の子らしく振舞ってきたのは、愛理のためなんだ。戻った後に本当の愛理が困らないように、みんなに慕われるように」
 「啓太君……」
 純子は胸が熱くなる。
 「でも、わたしのせいで、あなたは身体をなくして、純子は命をなくした。わたしだけ、元に戻るなんてできないの」
 「だからそのことは、みんなが悪いって言っただろ。元に戻らないで二回目の入れ替わりを誘ったのはホントの純子だ。それに賛成したのはボクだ。ボクも純子も『異常が起こるかも』ということを知っててやったんだ。同罪だ」
 「わたしが誘わなければ……」
 「違うって。たとえば今日みたいに海に遊びに来て、溺れたら誘った人が悪い? 無理して深いところに行った方が悪いだろ。だったら誘った君じゃなく、やったらだめっていわれたのにやったほうが悪いよ。ボクはそれを入れ替わってからずっと悔やみながら過ごしてたんだ。愛理が自分を責めていることを分かってたのにそれを言い出せなくて、それで一緒にお墓参りして君の償いは終わったって言って、この身体を君に返して、終わりにしたかったんだ。それもボクも悪いということは言わずただ終わらせようとしてた。卑怯者なんだボクは。その上、勝手に記憶なくして、愛理に酷いこと言ってしまって。むしろ責められるのはボクだ」
 「そんなことない。わたしが悪いの」
 「そうやって、君が自分を責めているのを見続けるのは嫌なんだ。分かってよ」
 ついに愛理は涙をこぼした。
 「泣かないでよ。そんなことくらいで。男のクセに」
 「涙もろいのは、この身体のせいだよ。愛理が自分を責め続けるなら、ボクはずっと泣き続けるんだ」
 「そんな脅迫しないでよ。分かったわよ」
 純子はそこで深呼吸をした。
 「もう自分を責めないわ。それからその身体はあげたんだから返してもらわなくていいの」
 純子のつんとした話し方に、愛理は笑顔を見せた。
 「なんだ、そのしゃべり方まだ出来るんだ。でも純子の顔には似合わないよ。クスクス」
 「笑わないでよ。ほら、千鶴さんたち来たよ」
 見ると海から千鶴が上がってきて、真っ直ぐ愛理に向かってくる。その後ろを良美と男子二人がついてくる。
 「海から見てたんだけど、またケンカしてなかった?」
 近寄ってくるなり訊く千鶴。
 「えっ、いや、してないけど。なぁ」
 「うん、してないしてない」
 慌てて焦って否定するふたり。
 「だったらいいけど、愛理も少し海に浸かってきなさいよ。せっかく海に来てるんだから。うずうずしてるんじゃないの? 頭さえ濡らさなければいいんでしょ」
 「うん。でも……」
 愛理は、事故のときの腰のアザが今の水着では隠せていないことが気になって躊躇った。
 「愛理。はい、これ使って」
 純子がバッグから取り出して、愛理に手渡したのはパレオだった。
 「分かってるんだから。これで隠しなさいよ」
 純子はアザのあたりを、軽く触った。
 「ありがとう!」
 言葉にしていないことを、理解してくれていることが、愛理にはすごくうれしかった。心からの感謝を言葉にした。
 愛理は、Tシャツを一気に脱いだ。その脱ぎっぷりに、千鶴の後ろにいた男子たちから歓声があがる。
 「イヤだ。そんなに見ないでよ」
 愛理は女の子が胸を隠すように、水着の胸元を両腕で隠した。
 「愛理それは違うって」
 純子が小声で愛理に告げる。
 男子の歓声は、愛理の脱ぎっぷりに対するものだ。それなのに、愛理が水着を着ている胸元を隠すのは、おかしく見えた。
 「でも、こんなの着てるの見られるのは恥ずかしいんだもん」
 「こんなのって……」
 水着を指して、こんなのという愛理の感覚が千鶴には分からない。
 愛理はショートパンツに手をかけて、恥ずかしそうな視線を、千鶴とその向こうの男子に向ける。
 「男子。向こうむいて」
 後ろの男子に指示する千鶴。
 「千鶴と良美も。お願い」
 両手を合わせて、懇願する愛理。
 「わたしも」
 女の自分が指名される不条理に、納得いかない様子だが、愛理の頼みに仕方なく千鶴と良美は後ろを向いた。
 その間に愛理はショートパンツを脱いで、純子にパレオを止めてもらった。
 アザが隠れて見えないことを愛理は確かめる。
 「いいよもう」
 恥ずかしそうな愛理の言葉に、千鶴たちが愛理を振り返る。
 パレオを着けた水着姿で、胸元と下腹部に手をやって恥ずかしそうにしている愛理に、男子と千鶴が「おー」と感嘆の合唱をする。
 「やっぱ恥ずかしい」
 顔を真っ赤にして背を向ける愛理。広く開いたセクシーな背中を、無自覚に披露する結果となる。
 「そんなにハイレグじゃないのに。そこまで恥ずかしがらなくても。まあ愛理らしいけどね。さあ行こ」
 千鶴が愛理の手を取る。
 愛理は千鶴に手を引かれて、海へと駆けていった。
 「愛理ー!」
 ジャバジャバと海へ足を突っ込んだとき、遠くから里穂の声がした。
 かなり沖の方まで行った里穂が腰から上を海面から出して立っている。
 「ここ岩があって、立てるんだよー!」
 「危ないよ! 里穂!」
 愛理の言葉が聞こえないのか、里穂は手を振り続ける。
 そして、足を滑らせて深い海に落ちた。一気に頭まで水に沈む。
 「里穂!」
 泳げないわけではないのに、慌てているせいか、里穂は両腕をバシャバシャとさせて溺れそうに見える。
 近くを見回すが、助けを頼めそうな人はいない。
 愛理は、躊躇わず駆け出し、海へ飛び込む。
 「ダメーッ! 愛理」
 「だめよ!」
 純子や千鶴の言葉は無視して、愛理は泳ぎだした。
 五十メートル以上ある里穂のいる場所まで、クロールで一気に泳ぐ。
 愛理がたどり着いたときもまだ、里穂は溺れそうにもがいていた。
 「大丈夫? 落ち着いて」
 「あ、足つったの」
 愛理は、里穂を仰向けに抱きかかえて、呼吸を確保すると、里穂が落ち着くのを待った。
 落ち着いた里穂は、自分を助けてくれたのが、愛理だと気付いて、驚いた。
 「愛理、泳いだらダメなんじゃ……」
 申し訳なさそうに里穂が訊く。
 「溺れてるのをほっとけるわけないじゃない」
 「ごめんなさい」
 「さあ、戻るよ。泳げる?」
 「うん、ゆっくりなら」
 愛理は、里穂がゆっくりと泳ぎだすのを確認してから、横について平泳ぎで泳ぎだした。
 ときどき声を掛け、里穂のことを気遣う。
 かなりの時間をかけて、愛理と里穂は、友達の待つ浜辺へと戻ってきた。
 まだ腰まで水に浸るところまで、千鶴が駆け寄って、愛理に声をかける。
 「愛理大丈夫?」
 「わたしより、ハァ、里穂を頼むよ」
 乱れた息で愛理は言うと、理穂を千鶴へ預けた。
 そして、砂浜まで歩いて、愛理は腰を落とした。
 里穂は、千鶴に抱えられて、砂浜にたどり着くと、両手を着いてゲホゲホとしている。だいぶ水を飲んでいるのに違いない。
 横目でみんなが里穂を介抱している様子を見ながら、大事がなくてよかったと胸をなでおろした。
 里穂が落ち着いたところで、千鶴が愛理に向き直る。
 「あなたは、病み上がりなのよ。自分が溺れることは考えないの?」
 「そんなの、考えてる暇ないよ」
 言ってから、千鶴の目に涙が溢れているのに、愛理は気付いた。
 「ゴメン、心配してくれたんだ」
 「当たり前じゃない。お願いだから、これ以上もう心配させないで」
 「そうよ。みんながどれほど心配したか。里穂は自業自得だとしても、愛理はムリにつれて来たようなものだから、それで何かあったら、悔やみきれないじゃない」
 「ごめんなさい」
 「悪いと思うなら、罰を受けなさい」
 純子が愛理の背後から言った。そして言い終わらないうちに、手に持ったペットボトルから、愛理の頭へ水をかける。
 「っめたーい!」
 頭に掛けられた冷たい水は、当然その後は身体のほうへ流れてくる。
 愛理は身体を縮こませて、冷たさに耐える。
 「今そこで買ってきたミネラルウォーターよ。氷水に浸かってたから、さぞかし冷たいでしょうね。でも消毒薬がないんだから、これくらい我慢しなさい」
 傷痕だけでなく、髪の毛全体を洗うように水をかける。
 「これで多分大丈夫じゃない」
 言って純子は、愛理の頭にタオルをかけて軽く拭いた。
 「ありがとう」
 震える声で愛理は言った。
 冷えた身体を動かして温めようと、愛理は立ち上がった。
 「わたしもー。ありがとうって言わせてー」
 そこへ里穂が抱きついてきた。
 お互い水着しか身に着けていない。冷えた身体に里穂の身体の温もりが直接伝わってくる。まるで女の子に裸で密着されているように思えてしまう。
 さらに、身長差から里穂の小さめの胸が、里穂が動くたび愛理の胸を下から押し上げてくる。
 なんかヘンな気分になりそうだった。
 愛理は完全なまでに顔を真っ赤にして里穂を押し離そうとした。
 「里穂。ちょっと」
 「ホントにありがとう。愛理はわたしの命の恩人だよ」
 「離して、里穂。恥ずかしいから。誰か助けて」
 「愛理。大好き!」
 とどめのひと言で、里穂は愛理の胸に顔を埋めた。
 「うきゃぁー」
 妙な悲鳴を上げると、愛理は暴れて里穂を振り切ると、純子の陰に逃げて隠れた。
 その愛理を里穂が追いかける。愛理は千鶴の陰、良美の陰と逃げ回るのを、里穂が追い掛け回す。
 「愛理大好き」
 「何とかしてよぉ」
 そんな二人を、みんなが眺めて笑いあった。
 そしてその後は、波打ち際でみんなで水遊びをして、日没が近づくころ惜しみながらも海を後にした。


     第十九章

 その日、純子が愛理の家に泊まりに着ていた。
 夏休みも残り一週間になり、愛理の両親がぜひとも純子にお礼がしたいということから、純子が愛理の家におよばれに来ることになり、そして愛理も純子にゆっくり話したいこともあったから泊まってもらうことになったのだ。
 純子は愛理の両親に、娘の恩人として大歓迎された。
 本当の両親に他人として歓迎される複雑な心境を察して、愛理は純子とできるだけ早く部屋にいけるように頑張って、デザートの後少しして、ようやく両親から解放された。
 二人は愛理の部屋で満腹に少し苦しんでいた。
 「これじゃぁまるで拷問だよね。ゴメンね、パパとママは限度がなくてって、わたしが言うのはヘンだね」
 言って愛理は舌を出して笑う。
 「そういえば、いつからパパママって言うようになったの」
 純子が尋ねた。
 「二回目の入院で退院してからだよ。前はパパママって言ってくれてたって言うから、そうしたんだけど……」
 「それって小学校の低学年くらいよ。高学年でお父さんお母さんで、中学入ってからは、クソオヤジとクソババァ」
 「最後は統一性がないなぁ、ってそんな問題じゃないけど。っていうことはわたし騙されたのか。まぁ喜んでくれてるからいいけど」
 「愛理には頭が上がらないわ。お父さんお母さんを喜ばせてくれて」
 「別に普通だよ。親子として一緒に住むんだから、楽しく過ごしたいじゃない」
 「ホント感心させられるわ。そのポジティブなところが好きになったところなんだけど」
 好きといわれて、愛理は少し顔を赤らめる。
 「それで、あれからは、もう記憶は戻らないの?」
 純子が真顔に戻って、尋ねる。
 愛理は表情を曇らせ頷いて、それから笑顔を見せた。
 「中途半端でヘンな感じだよ。自分のこと男だと思ってるけど、女の子の仕草や言葉が自然に出るし、それはそれでしっくりくるんだ。まあ、とりあえず必要なことは思い出せたんだし、後は戻らなくても、いいかな」
 「ダメよそんなの。大切な今のお友達のことを思い出してあげないとかわいそうじゃない」
 「そりゃ、記憶の戻る方法があるなら…… でも努力で何とかなるものじゃないから」
 純子は頷いた。そして、ふたりは押し黙る。
 うなだれる愛理を、純子はそっと見つめた。
 「愛理が記憶なくしたのって、ひょっとするとわたしのせいかな……」
 つぶやくように純子が言った。
 「またそうやって何でも自分のせいにする」
 「啓太君の身体がなくなって、もう啓太君は元に、男の子に戻れないから、わたしにできることは、愛理として立派な女の子にしてあげることだって思ったの。だから言葉遣いや仕草とか、服の選び方まで、女の子らしくすることを押し付けてたの。あなたはそんな性格だから、ポジティブに受け取って、ちゃんと女の子らしくしてくれた。でも、きっとあなたはプレッシャーとかストレスを感じていたのよ。男の子でいたいって思う心と、女の子として生きていくって気持ちとで板ばさみになってたのよ。それが事故の直前の啓太君の童貞を奪ってしまった話で一気にショックを受けて……」
 「ちょっと待ってよ。ボクの童貞を奪ったって、どういうこと?」
 「えっ 思い出してなかったの? ちょっとそんなのずるい!」
 「ずるいって何が?」
 「だって、そんな恥ずかしいこと二回も言わせるなんて……」
 そう言ってから純子は思った。『そうよ。啓太君は、自分の身体を失ったことを、本当の純子が死んだことを二回も苦しんだのよ。こんな恥ずかしい話くらい、なんでもないじゃない』
 純子は、深呼吸を一度して、気持ちを落ち着かせようとした。
 「分かった。話してあげるわ」
 「いいよ、一回聞いてるんなら。思い出せばいいんだから」
 「話すって決めたんだから、言わせて」
 「分からないことがあった方が、思い出そうって気持ちになって、記憶が戻りやすくなるんじゃない」
 記憶喪失のことを言われると純子はそれ以上言えなかった。
 「ところで、本題に入っていい?」
 真剣な表情に戻って言った愛理の言葉に、純子は頷く。
 「ホントに愛理はこの身体に戻りたくないの? ホントにもらってしまっていいの?」
 「またその話? 何度も言わせないでよ」
 「だから確認だって。もらってしまっていいのかって」
 「えっ」
 ようやく、今までとは問いかけの趣旨が違うことに気がついた。
 「もちろん、あげたんだから返してとは言わないわ」
 「ということは、わたしがこの先どういうことをしようと、友達として以上の口出しはしないってことだよ」
 「そう、そうね」
 純子の思っていたことより大きな話で少し驚く。
 「何かするつもりなの?」
 「別に。ただの決意だよ」
 「決意?」
 「そう、わたしは愛理のこの身体をもらった。愛理として生きていく。つまりそれは身体だけをもらったんじゃなくて、全ての人生をもらったってことでしょ。だから生まれたときからずっとわたしは愛理ってこと。分かった?」
 純子は頷く。
 「そうすると、愛理が二人いたっていうのはおかしいから、あなたは生まれたときから純子。とすると入れ替わりなんてなかったっていうことだから、あなたが、わたしや心臓発作で死んだ啓太君≠ノ罪を感じることなんて何にもないってこと。分かった?」
 「でも……」
 「それでも……」
 言いかけた純子を愛理はさえぎる。
 「それでも、まだ啓太君≠フ死んだことに誰かが責任を取らないといけないというなら、啓太君≠誘った愛理≠ェ責任を取るんだから。それはこの身体をもらったわたしの責任。分かった?」
 「愛理……」
 そうつぶやきを漏らした純子の目から涙があふれ出た。
 純子は、愛理の気持ちが辛いほどにうれしかった。
 ずっと罪の意識を感じ続けてる純子を、罪を自分のものにしてまで救おうと、愛理が考えたことだ。そのことがよく分かったから、とてもうれしかった。同時に辛いのだ。
 「今後、自分のことは啓太だとは思わない。純子のことを愛理と呼ぶこともしない。だからわたしのことはもう啓太って思わないで」
 愛理が純子を見つめた。
 「わかったわ。あなたは一生の友達よ。ホントにありがとう。うれしいわ」
 涙の溢れた眼で、純子も愛理を見つめ返し、恥ずかしそうに上目遣いをして続けた。
 「お礼をさせてもらえるかな」
 言って純子は、ベッドの縁の愛理の隣へ腰を下ろした。
 そして、純子はその流れのまま、愛理へと顔を近づける。
 愛理はそれに気付いて、純子へと顔を向け、「何をしようとしてるの?」と訊こうとした。
 その声が発せられる前に、純子の唇が愛理の口をやさしく塞いだ。
 愛理は拒まない。
 純子は、愛理を抱き寄せる。
 愛理は、舌先に柔らかな塊を感じた。
 それが純子の舌だと分かり、愛理は舌を絡ませた。
 いつの間にか、愛理の方が積極的になり、身体を純子の方へと傾けていった。
 そして愛理の身体を支えきれなくなった純子は背中からベッドへと倒れた。
 倒れた拍子に、二人の口が離れた。
 少しの間、見詰め合い、そして愛理が先に視線を逸らせ、それから愛理が純子の上から身体を退かせた。
 「どう? ファーストキスの味は?」
 「桃の味がした」
 食後のデザートのことだ。
 「もう、愛理ったら」
 口元を押さえて、純子が恥ずかしがる。
 デリカシーのない答えをしてしまったと、愛理は思って少し反省した。

 ひとしきり他愛のない話をして、寝る前の歯磨きを済ませた。
 愛理はベッドのふちに腰掛けている。
 純子は掛け布団をめくって、布団の上に座っている。
 「こっちで寝ない?」
 愛理はベッドを軽く叩いて言った。
 「そのベッドは、もうあなたのなんだから、わたしはこっちでいいわ」
 純子が応える。
 「そういうことじゃなくて……」
 愛理は先にベッドに入ると、掛け布団を上げて、純子を誘った。
 こんな甘えるような愛理の姿を見るのは初めてだった。
 「どうしたのよ。あなたらしくない」
 「分からないけど…… なんだか急に……」
 恥ずかしそうに、愛理は答えた。
 『それって、女の子が友達同士でするようなただ一緒に寝るだけのこと? そうじゃないよね…… だって啓太君なんだから……』
 純子は一気に顔が真っ赤になる。
 「ちょっと待って…… その…… お手洗いに行ってくるから」
 「うん。じゃあ、待ってる」
 愛理のその言葉は、純子にはなぜかな艶かしく聞こえた。

 その場を逃げて、純子はトイレにこもった。
 「はぁ、はぁ……」
 純子は呼吸を整える。
 『愛理は、わたしとしたいのかな…… 愛理は覚えていないって言ったけど、わたしとホントの純子とでエッチなことしてたことが、やっぱりショックだったのよ。記憶が戻ると心まで女の子になると感じて、その前に自分もしたいって、心の奥底で思ってるのよ。それで無意識にこんなことしているのよ。エッチなことしないと愛理の記憶は戻らないんだわ。きっとそうに違いないわ。その思いを叶えられるのは、わたししかいない。で、でも、啓太君とエッチなことするなんて…… 恥ずかしいよ。そりゃ、啓太君のことは好きだし、さっきもキスはしたけど、ベッドあんなことなんて急に言われても…… って、確かに啓太君の身体とは経験済みだし、わたしの、愛理の身体だって啓太君になったときに抱いたわ。でも今は本当の啓太君。心の準備が…… って何ためらってるのよ。愛理のためになら何でもするって誓ったじゃない。こんなにうれしいことなのに。落ち着いて、わたし。しっかりと愛理を喜ばせるのよ!』
 純子は決意を固め、それから愛理の元へと向かった。
 「お待たせ」
 言って純子は愛理のベッドへと滑り込み……

 ……

 朝……
 純子は隣で眠る愛理の寝返りで、目が覚めた。
 少しの罪悪感はあったが、純子は幸せな気分だった。啓太の身体を抱いたときとは違う、好きな人と本当に結ばれたという実感があった。
 身体を起こし、純子は愛理の顔を覗き込む。
 パッと、愛理の眼が開く。
 朝の目覚めにしては、まどろみのない目覚めだ。
 しかしその瞳は何を見るともなし、正面を見続けている。
 何秒間かの時間が過ぎる。
 焦点を結んだ愛理の眼が、純子を捕らえた。
 「わたし、汚されたー」
 泣き顔で、愛理が言う。
 「ちょっと、何言うのよぉ」
 昨夜のことは、純子にとっては、言葉で頼まれたわけではないが愛理の願いに応えたつもりだ。まして純粋な女の子ではない愛理にそんなことを言われるなんて、思ってもないことだった。
 慌てる純子に、愛理はぺろっと舌を出して笑った。
 「わたし、記憶が戻ったみたい。ありがとう」
 「いつからウソ泣きするようなコになったの?」
 喜ぶより、その驚きが先に出た。
 「純子が教えてくれたことじゃない」
 それは、啓太が女の子の愛理として生きていくことを心に決めて、純子がそれを支援するために女の子のいろはを教え始めたときのことだ。まだ自発的な女の子の表現が出来ないときに、純子が愛理だったときの自分を、いろいろと押し付けるように教え込んだことのひとつだ。しかし結局は啓太の性格に合わず、ウソ泣きなんてすることはなかった。
 今それが出来るようになったのは、いろいろと教え込まれた記憶が鮮明に蘇ったせいもあるが、男の子としての未練が解消されて、女の子愛理としての本当の一歩を踏み出せたからなのかもしれない。
 もちろん今の愛理がそんなことを自覚などしてはいないだろうが……

 記憶が戻った報告を受けて、両親は抱き合って喜んでいた。
 ただ、父親は「パパ」と呼ばれなくなったことを、ちょっと寂しがっていたようだ。

 昼近くになって純子が帰るとき、愛理も両親も昼食を食べていくことを勧めた。
 「お父さんやお母さんの邪魔はしたくないから。それにきっと家事がそのまま山積みに残されていると思うし。愛理も残りの夏休みを愛理として過ごしてよ」
 純子はそう愛理に告げた。
 「愛理としての夏休み? と言っても買い物も行ったし、海も行ったし…… ああっっ 宿題やってない」
 「記憶なくしてたんだから、そんなの大目に見てくれるでしょ。それか、クラスの子のを写させてもらうとか」
 「だってわたしは委員長で副会長なんだから、そんな不正は出来ないし、だいたい勉強は自分のために自分の力でするものなんだから。あと一週間、ぎりぎり何とかなるわ」
 「あなたらしいわ。でもムリしないでね。一番の宿題は二学期に元気な姿をクラスのみんなに見せることなんだから。じゃあ、宿題の邪魔をしたら悪いから帰るわね」
 「あっ! ちょっと待って」
 言うと愛理は、学生カバンを探る。
 取り出したのは生徒手帳だ。中から取り出したものは写真だ。
 「これをもらってほしいの」
 生徒手帳に挟んであった啓太の写真。
 「でもこれは啓太君の大事な写真だし」
 「いつまでも昔の自分に未練を持つのはやめにするの。それに、わたしが啓太のことを好きだなんて、勘違いされたくないもん」
 「大事にしまっておけば、いいじゃない」
 「わたしにとってこの写真は役目を終えたの。いらないんだったら、破いて捨てちゃうから」
 破ろうとする愛理の手元から、純子はその写真を抜き取った。
 「わたしが大事に保管しておいてあげるから。何年かたって見せてあげるときはちゃんと感謝するのよ」
 「ありがとう。その写真は、わたしたちの絆だよ」
 愛理はにこやかに純子の手をとった。


     エピローグ

 夏休みも残り五日。
 夜更かし明けの朝の遅い時間、千鶴の携帯電話がなる。
 良美からの電話だ。
 「ふぁ〜い」
 「何眠たい声出してんのよ。タイヘンなのよ! 愛理記憶が戻ったんだって!」
 「えっ! ホント」
 「今から愛理のところに行って、パーッとお祝いしようと思ってるの。なんとなく今日は愛理のところに行かなきゃって思って、もう途中まで来てるところなのよ。千鶴も来てよ。どうせヒマなんでしょ? みんなにはわたしから連絡しておいてあげるから」
 「うん。行く行く!」
 答えて、電話を切ったとたん、再び鳴る。
 今度は、里穂からの電話だ。
 「もう聞いてるよね。今から愛理ンちに行くんだけど、千鶴も一緒に行く? 行くよね!」
 「今、良美から聞いて出かけるところ」
 「どうせまだ、パジャマのままなんでしょ? 駅で待ってるから、早く着てね」
 「うっ! すぐ行くから、待っててね」
 千鶴は電話を切った。そしてすぐさま、出かけるために身支度を始めた。

 身支度を終えた千鶴は、携帯電話にメールの着信のLEDが点いているのに気付いた。
 『こんにちわ。愛理の記憶が戻ったみたいよ。でも宿題やってなかったことも思い出して大変そうだから、終わるまではそっとしておいてあげて』
 という純子からのものだ。
 とりあえず純子には伝えてくれたお礼のメールを返信する。
 「でも、ということは、愛理のところに押しかけたら迷惑よね」
 つぶやいてから、千鶴は念のため愛理に、おめでとうメールを兼ねて行ってもいいかを尋ねるメールを送信した。
 『絶対来ないで』
 すぐに返事が来たものの内容はそれだけだった。
 「気を使う余裕もないって感じね。里穂と良美にも教えてあげなくちゃ」
 千鶴はまず理穂に電話する。
 「わたし。純子さんからのメールによると、愛理は宿題で大変だから、行かないほうがいいみたいよ」
 「えーっ! そんなぁ。じゃぁせめて電話でおめでとうだけ言っておくよ」
 「それも、ヤバイかもしれないわよ」
 「だって愛理だよ。きっと優しく『ありがとう』って言ってくれるよ」
 「それが目的かっ! 知らないわよ。怒られたって。じゃあ良美にも連絡しないといけないから」
 そういって切った途端、メールを受信した。
 良美からだ。
 「クラスのみんなへ。愛理の記憶が戻ったよ! みんなお祝いしよう!」
 メーリングリストを使って、一斉に送ったものだ。だから分かってる内容なのに、千鶴にも送られてきたのだ。しかし、ということは愛理の元にも送られているはずだ。
 「ヤバイんじゃない?」
 なぜなら、愛理の宿題の邪魔をみんなにさせたのはわたしよ! と宣言しているようなものだ。
 千鶴は慌てて、良美へ電話する。
 「わたし。純子さんからのメールに愛理は宿題で大変だからほっといてあげてって……」
 「えーっ、そうだった? じゃあ手伝いに行かないと」
 「そうじゃなくて。行かないほうがいいって」
 「千鶴は来ないの?」
 「行かないし、あなたも行っちゃダメよ」
 「大丈夫だって。みんなでやった方が、早く終わるし、楽しいじゃない。その後はパーティよ、じゃあね」
 電話は切れた。
 「知らないんだから」
 千鶴は念のため、純子からのメールの内容をみんなにメーリングリストで送信した。

 千鶴の携帯電話が鳴る。
 里穂からだ。
 「うぇーん」
 いきなり泣き声だ。
 「どうしたのよ」
 「愛理が怖かったよぉ」
 「だから言ったでしょ。やめといたほうがいいって」
 「いきなり『うるさい。徹夜明けでイライラしてるのに、電話で邪魔ばっかしないでよ』って怒鳴るんだよ。まるで、記憶なくしてたときに暴れた時みたいだったよ。怖かったよ」
 「よしよし。でも泣くほどのことじゃないでしょ」
 確かに愛理はいつも里穂には優しくしていたから、里穂にとっては数倍怖く感じたのかも知れない。
 「出かける準備したついでだから、慰めに行ってあげるわ。二人で愛理のお祝いをしましょ」
 そして、千鶴は里穂の待つ駅前の繁華街へと出かけていった。

 喫茶店で、しょげる里穂を慰めつつ、冷たいジュースで喉を潤しているところに、千鶴の携帯電話が鳴った。
 良美だ。
 不吉な予感を感じながらも、千鶴は出る。
 「うっうっうっ」
 完全な泣き声だ。
 「愛理に怒られたの?」
 「そんなもんじゃないのよ。ブチ切れてたよ。『あんたのせいで、電話攻めになって、宿題が出来ないじゃないの!』って。で、『手伝うから』って言ったら、『委員長のわたしに不正をさせるつもりなの!』って。あんな愛理見たのは初めてだよ。わたし二学期から学校行けないよぉ。どうしよう。なんとかしてよ」
 「じゃあこっちにおいでよ。一緒に考えてあげるわ。許してもらえる方法を」

 それから二学期が始まるまで、みんな怖くて愛理に連絡が出来なかったのだった。

終    




登場する人物団体は、架空の存在です。実在のもとは、一切関係ありません。


2008年制作のものに加筆修正しました。
2011年 輝晒正流