『淫魔のジャコマ アフターストーリー』 その8
作:JuJu


 敏洋はジャコマの書の表紙をながめながら悩んでいた。
「ジャコマを召還すれば戦力になる。
 憑依させることによって淫魔に変身することも出来る。
 淫魔になれば魔力が使えるはずだ。巨大な肉体を持った魔獣に対して、人間の女性とさほど変わらない体つきをした淫魔がどれほど戦えるものなのかまったくの未知だが、魔力を持たない者が魔物と戦うにはそれしか方法がない」
 と、敏洋は考えた。
「しかし……」
 敏洋は召還をためらった。
 彼が極力ジャコマのことを考えずにいたのには理由があった。
「ジャコマの召還には、不安な要素が多すぎる……」
 敏洋はジャコマを呼び出すことへの問題点を、羅列して検討することにした。
「まず最初の問題は、ジャコマは魔物だと言うことだ」
 敏洋は、魔物に魅了された者の末路の話を思い出していた。それはすべて悲惨な最期だった。
 たとえば、親しげなふりをして懐に入り、甘い言葉でたぶらかし、従者として人間が望む欲を叶えてやる。最後に人間は魔物に踊らされていたことに気が付く。だが気がついた時にはすべてが手遅れで、人間はまんまと狡猾な魔物の餌食になってしまう。
 この手の話はマザーからも聞いていたし、自身でも知っていた。
「真緒は単純というか、素直というか、あんな性格だからジャコマのことを信用しきっているだろう。
 まあ、感情の点では俺も真緒と同じだ。ジャコマにかぎって、こんなことはないと思う。
 ただし、相手は魔物だ。感情に流されるわけにはいかない」
 彼は身を引き締めた。
 敏洋はジャコマの書を開いて文字を見る。そこに書かれた文字から、ジャコマのことをわずかでもでも知ろうと試みた。
「次に、謝礼だ」
 ジャコマの書の文字を目で追いながら、同時にジャコマを呼び出すことへの問題点の検討も続けた。
「ジャコマを呼び出すと言うことは、魔物との契約をすると言うことだ。契約である以上、当然謝礼を求めてくるだろう。
 命がけの戦いを頼むのだ。それに値する対価が必要になる。
 一生涯ジャコマに淫欲を与え続けなければなければならないとか、俺の命を要求してくるかもしれない」
 魔獣に負ければ、俺たちはおわりなのだ。ジャコマが望むのならば、どんな要求でも飲む覚悟はある。
 そう敏洋は片づけ、次の課題に移った。
「それから、呼び出したところでジャコマが一緒に戦ってくれるかという点だ。
 ジャコマが俺たちに好意をもっているとしても、だからといって、同類である魔物を敵に回してまで、俺たちの味方をするだろうか。
 たとえば、俺とジャコマの立場を逆転させればわかりやすい。
 悪魔退治師がいよいよ魔物にとどめを刺そうとしている場面に、俺が偶然通りがかったとする。
 魔物は俺とそこそこ親しい仲だったと仮定する。
 魔物はすでに瀕死で、反撃など出来る状態ではない。あとはとどめを刺すだけという状況だ。
 その魔物に助けを求められたとして、俺は人間を裏切ってまで、それこそ魔物退治師を殺して、人類の敵に落ちてまで、魔物を助けるだろうか?
 そう考えれば答えは簡単だ。
 ジャコマはこの戦いには手を出さずに、哀れみを帯びた目で遠くから俺たちを見つめながら、ひたすら観客に撤するだろう」
 ただし、これは俺だったらの話だ。
 あとは、ジャコマの意思にまかせるしかないだろう。
 敏洋はそう思った。
 検討をしている間も、敏洋はひたすら開いたジャコマの書を見つめていた。
 手書きの不思議な形をした文字がそこに踊っている。難解で、辞書なしではとても読むことさえ出来ない。
 だから敏洋は、この手書きの筆跡から、この本を書いた者の人となりを見きわめようとした。そこから、ジャコマという魔物の本質を見抜こうとしていた。
 その文字たちは、魔物を怖れるでもなく、また、自分の長けた知識をひけらかすでもなく、ただ淡々とした字で書かれていた。
 敏洋は検討を続けた。
「最大の問題は……。
 俺たちの勝手な都合やなりゆきで、ジャコマを巻き込みたくはないと言うことだ」
 いままで様々な理由を並べていたものの、結局、敏洋の本心はここにあった。
「俺は良いんだ。自分の意志でここに来た。だがジャコマは違う。俺にいきなり呼び出されて、命がけで戦ってくれとは、あまりにも虫が良すぎる話だろう。
 死への道連れをさせようだなんて、どっちが魔物かわかったものじゃない」

   *

 敏洋がそんな思案を巡らせている間も、真緒は魔獣と戦っていた。
 真緒がついに魔獣に押し倒された。
 真緒は背中を地面に強くたたきつけられた。衝撃と全身に走る痛みに鉄槌を落とす。
 仰向けに倒された真緒の上に、すかさず魔獣がのし掛かる。
 魔獣は頭を振り上げると、返す刀で真緒の顔に噛みつこうとした。
 その牙を、すんでの所で拾い直した鉄槌で防ぐ。
 牙が鉄槌に当たる感触が、真緒の手に伝わる。
 目の直前で魔獣の頭の進行が止まる。
 剥き出した牙の先からよだれが落ちて、真緒の顔に当たった。
 生臭く熱い息が顔にかかる。
 真緒は鉄槌の両端を持ち、ひじを地面に当てて、自分の腕をつっかえ棒みたく立てて、魔獣の重圧に堪えた。
 彼女はとっさにした自分の判断に、自分で満足した。
 この方法ならば、魔獣が押してきても堪えきれる。
 そう思った。
 だが、魔獣は鉄槌をくわえたまま、首を斜めに振り上げた。
 鉄槌に流していた魔力がすっかり弱り、魔獣がしっかりとくわえ込むことが出来た。
 鉄槌さえなければ、真緒はただの人間だ。
 そのことに気が付いた魔獣は、鉄槌をくわえてひっぱり、真緒の手からもぎ取ろうとした。
 押されることばかり考えていて、まさかひっぱられるとは思わなかった真緒。その両手から鉄槌が奪われる。
 慌てて手をのばし、右手だけはかろうじて掴み返した。
 魔獣は激しく首を左右に振った。
 鉄槌をかみ切ろうとするかのように、ガチガチと魔獣の牙が鉄槌に噛みついている音がした。
 真緒と魔獣では、腕力の差が大きすぎる。このままでは、真緒の細い腕から鉄槌が奪われるのは時間の問題だった。
 その時、真緒は目をつむると呪文を唱えた。
「はっ!」
 目を開けるのと同時に、体中から息をはいた。
「グァギャルルル!!」
 魔獣が叫び声をあげた。くわえていた鉄槌を離すと、叫びながら後ずさった。
 真緒から離れて立ち止まった魔獣。魔獣の退路に、一本の血筋が通っていた。口の中から血が滴り落ち、地に染み込んでゆく。
 真緒は鉄槌を強く握ると、ゆっくりと立ち上がった。
 しずかに、服に付いた汚れを払う。乱れた服と髪を手で整える。
 真緒が動いたのはそこまでだった。
 そのあとは、重々しい倦怠した上の空で、その場に棒立ちになった。
 その目は魔獣さえ見てはいなかった。
 その顔はすべてをあきらめて、ぼんやりとした表情をしていた。
 真緒はさっき喰らわせた攻撃に、残っていた魔力をすべてつぎ込んだのだった。
(もう、魔獣に対して攻めることも守ることもできません。
 自分に出来るのはここまでです。
 これで、わたしの役目は終わりました)
 真緒はそう思った。
 最後の懺悔のつもりだろうか、真緒は手を組み、空に向かって、遠い場所にいるであろう者たちに、捧げるようにささやいた。
「敏洋さん、ごめんなさい。
 わたしがマザーのような魔物退治師になりたいと願ったばっかりに、こんな魔物退治に巻き込んでしまって」
 真緒は修道服の上から、ポケットに忍ばせた口紅の感触を確かめた。
「マザー。わたしは魔力を持って生まれました。
 魔力は、魔力を持たない者を魔物から護り、魔物と戦うために授かった力。そうマザーから教えられました。だからわたしは、魔物退治師の道を選びました。
 そしてこれが、魔物退治師としてのわたしが出来る精一杯です」
 この口紅は、真緒がマザーの弟子になったばかりの頃「真緒も女の子なんだから、おしゃれも楽しまなくっちゃ」とマザーからもらった物だ。
 マザーから初めてもらった贈り物だった。
 以来、ふたを開けることもなく、お守り代わりとして魔物退治の時に肌身離さず持っていた。
 マザーに魔物退治に連れて行かれたとき、何度も危ない目にあった。命を落としそうな時もあった。そんな時、このお守りを信じて死の恐怖を堪えた。マザーがきっと護ってくれると信じながら。
 そして助けられた後は、自分もいつの日か、マザーのような魔物退治師になれますようにと、お守りに祈りを込めてきた。
「マザー。わたしは、やっぱりマザーみたくなるのは無理でした。
 でも、がんばりましたよね? 魔物退治師として、立派に使命を果たしましたよね?
 ここに残された鉄槌を見たら、よくやったと言ってくれますよね?」
 真緒は続けた。
「お父さん、お母さん。死ぬのは、やっぱり怖いです。
 魔力を持たずに生まれていたら、あるいは魔物退治師の道を選んでいなかったら、わたしがここで死ぬこともなかったでしょう。
 それでもやっぱり、魔物退治師の道を選んでよかった。
 だって、マザーにも、敏洋さんとも逢えた。
 悔いはありません」

   *

 警戒心の強い魔獣は、真緒のようすをしばらく見ていた。やがて、彼女が完全に戦意を消失したことを確信した。
 魔獣はこの時を待っていた。
 先ほど口を切られて、怒りが溜まっているのだろう。
 全身から立ち昇る、黒い霧が一気に沸き上がった。

   *

「マザーとも、敏洋さんとも出逢えた……。だから、悔いはない……。
 ――そうか。わたしは魔力を持って生まれたから、この道を選んだんじゃなかったんだ。
 マザーに憧れて、マザー見たくなりたくて。たまたまマザーが魔物退治師だったから、自分も魔物退治師の道を進んだだけだったんだ。
 魔物退治師の役割だから、敏洋さんを護ったんじゃなかったんだ。わたしが、敏洋さんに生き延びて欲しかったから、護ったんだ。
 ぜんぶ、自分の選んだ道だったんだ。
 でもやっぱり、道は間違ってはいなかった。こうして、大切な人たちに逢えたのだから」

   *

 魔獣は真緒に向かって走っていた。
 魔獣のまとっている黒い霧が、残像みたく遅れてなびく。
 よだれを垂らす口から、覗く鋭い牙がむき出しになっていた、赤い目は真緒を逃さぬようひたすら捉える。
 魔獣に表情はない物の、確信した勝利を体中からあふれさせている。
「グゥオーッ!!」
 魔獣は歓喜の余り、森一帯に高々と響く雄叫びをしながら走った。

   *

 魔獣の声に、敏洋は我に返った。
 敏洋は、ジャコマの書に入り込んでいた自分に気が付いた。
 魔法の文字には不思議な力があるのか、あるいは、日頃魔法の文字を解読するために集中していた習慣のためか、まるで魔物に魅入られたみたいに、ジャコマの書の紙面を見つめていたのだ。
 敏洋が顔を上げると、そこには、目をつむり、手を組み、すべての感情をなくしたような真緒が、迫る魔獣に身を任せて立っている。
 そしてその真緒に、魔獣が襲いかかるために駆けている所だった。
「くそっ!」
 敏洋はジャコマの書を勢いよく閉じると、真緒に向かって走った。
(ジャコマを召還している余裕はない!)
 手のひらでジャコマの書の感触を確かめる。
(前の魔獣もこれで防げたんだ。ジャコマの書と俺で楯になれば、真緒を護れるはず)
 真緒に向かって走りながら、敏洋はジャコマの書を強く握った。


(その9へ)