第一幕 その2
JuJu


「くそっ!」
 俺はジャコマの書をひっ掴んで、真緒の手からもぎ取った。
 ジャコマの書が離れた途端、真緒は体中の力が抜けた様に崩れた。
 倒れかけた真緒の体を支えるために、俺は彼女を抱きかかえた。
「大丈夫か! 真緒!」
 呼びかけると、真緒はすぐに気が付いた。目を開けた彼女はしばらく呆然とした表情をしていたが、すぐに自分を襲った惨状を思い出したようだ。
「もう、大丈夫だ」
 俺は彼女を安心させるために、真緒の目を見ながら力強く頷いて見せた。
 真緒は俺の顔をしばらく見つめていたが、急に笑顔になった。その上、彼女は身を任せるようにもたれ掛かってきた。突然預けてきた体の重さに、俺はよろけそうになる。そのために、真緒を抱きかかえる腕に力を込めなければならなくなった。
 俺の胸の中で、真緒はますます幸せそうな顔をした。
(あんな目にあったばっかりなのに、こんな顔をするなんて、あいかわらず変わった奴だ)
 彼女の笑顔を見て安堵したためだろうか、助けるためとはいえ、結果的に真緒を抱(だ)くような状態になっている事に俺は気が付いた。
「いつまでも俺に寄りかかっているんじゃない! その分じゃ、もう平気だろう」
 気恥ずかしい感情が体の奥底から沸き上がってくる。俺は真緒を胸から離した。顔が火照っていることが自分でも分かる。
 だがそれ以上に大変なことに、俺は気が付いた。
 真緒を離してから気が付いたのだが、手に持っていたはずのジャコマの書がなくなっていたのだ。
「どこだ?」
 あたりを見渡すと、足もとに落ちていた。
 真緒が倒れかけたときに、彼女を助ける事に気を取られてしまい、落としてしまったらしい。
 さらにまずいことに、留め金が外れていたジャコマの書は、床に向けてページを開いて落ちていた。
 俺は真緒を見た。真緒もこの事態に気が付いたらしく、驚いた顔で俺を見返して来た。

 *

 ジャコマの書が開いている事に気が付いた敏洋さんは、わたしの手を引いて礼拝所の隅まで避難した。扉を背にしたこの場所から、ジャコマの書の異変を観察をすると敏洋さんは言った。
 それから、ずいぶん時がたった。
 異変は何ひとつ起こらなかった。
「何も起こりませんねぇ……」
「……」
 それでも敏洋さんは、床に落ちたジャコマの書を深刻そうに見つめている。
 いいかげん、ただひたすらあの本を見つめている事に飽きて来たわたしは、さとすように言った。
「ねえ、敏洋さん。
 あの呪文は留め金を外す為の物だったんじゃないんですか?」
「ああ。そうらしいな。だがしかし……」
「だいたい敏洋さんは心配しすぎなんですよ。
 本に魔術をかけても、さっき見たく留め金をはずすことが精一杯ですよ。たぶん」
「まあ、真緒がそういうのならば、そうかも知れないな」
 よかった。敏洋さんの顔にやっと安堵が戻った。
「しかし、あんな目に遭った後なのに、お前は肝が座っているな」
「魔物退治で鍛えさせられていますから。この程度でへこたれていたら、マザーのお手伝いなんて、とても出来ませんよ」
 この言葉は強がりだった。本当は、まだ心に怖さが残っていた。
 でも、敏洋さんが感心したように頷いているのを見ていたら、残りの恐怖感も霧のように散らばっていった。
 それに敏洋さんに認められた事が気持ちがよかった。
 せっかく掴んだ主導権だ。いつも見下されてばっかりなので、ちょっと敏洋さんを困らせる事にした。
「でも、一難さってまた一難ですね」
「何がだ?」
「だってこんな高価そうな蔵書を床に投げ捨てるなんて、敏洋さんきっとシスター・マザーに叱られますよ!」
 これは嘘だった。
 マザーの事だから、わたしに危険が迫ったと話せば怒りはしないはずだ。でも、敏洋さんの事だから、本気でマザーに叱られると思うかも知れない。そんな気がして、ちょっとからかってみたくなったのだ。
 とにかく、本を愛してやまない、いつも本を丁寧に扱っている敏洋さんが、ジャコマの書を捨ててまで助けてくれた事がうれしかった。
 敏洋さんはわたしを見て、人が蒼くなっているのに、なに笑っているんだとうなった。
 そのために、わたしはますますおかしくなってしまった。
「しかたなかったんだ。お前の危機に、そんな所までかまっていられなかったからな」
「じゃあ……」
「なんだ?」
「もう一度ジャコマの書の呪文を読んで気を失ったら、今度もまた抱きしめてくれますか?」
「バカなことを言うな」
 敏洋さんは、今度は顔を赤くした。
 敏洋さんには、わたしがからかっているように映っている様ですが、わたしは本気で言っています。敏洋さんが抱いてくれると言うのならば、わたしは喜んで何度でも読みますよ。
 心の中で、そうつぶやいた。

 *

 真緒にからかわれた俺は照れ隠しも含めて、この騒ぎですっかり乱れてしまった礼拝所のイスを整列し始めた。
 俺がイスを並べているのを見て、真緒も手伝い始めた。
 やがて俺と真緒で、すっかりイスを並べ終わった。床にジャコマの書が落ちている辺りを除いては。
 俺はジャコマの書に近づくと、散らばって落ちている留め金を拾った。
 留め金を丁寧にポケットにしまい込む。
 今度はジャコマの書に手を伸ばした。
 そのとき、真緒が叫んだ。
「さわってはだめです、敏洋さん!」
「危険なことは分かっている。だがこんな物騒な物を、それも本が開いたままで、いつまでも放って置くわけには行かないだろう。
 呪文を声に出して読まなければ、おそらく大丈夫なはずだ。俺は魔術の文字は読めない。だから、呪文の読めるお前が触れるよりは安全だ」
「……気を付けてください」
 俺は頷くと、真緒に下がるように手振りをした。
「万一の事が起こったら、高名なるシスター・真緒の力で何とかしてくれ」
 俺は、真緒が礼拝堂の壁に背を当てた事を確認したあと、静かにジャコマの書に触れた。
「……」
 反応はなかった。
 ジャコマの書を持ち上げた。
 なんの変化もない。
 危険だと思ったが、下を向けて開いているジャコマの書を裏返した。
 真緒の止める声が耳に入ったが、頼りになるマザーが帰ってくるのは三週間後だ。それまで、得体の知れないこの本を放って置くわけには行かない。このままでは対処のしようがない。危険ではあるが、原因を突き止められさえすれば対処のしようもあるはずだ。
 なにより、真緒を助けるためとは言え、ジャコマの書を開けてしまったのは俺の責任だ。
 それに、俺には真緒がついている。あのマザーが認めたんだ。信頼しよう。
 俺はジャコマの書の中身を見た。そこには、魔術の文字と挿し絵が書かれている。
 ――それだけだった。
 パラパラとページをめくったが、中に書かれている文字が魔術の言語であることをのぞけば、何の変哲もないただの書物だった。
 結局何一つ事件など起きなかった。
「真緒の推測通りだったな。さっきの呪文は、本の留め金を外すだけの物だったらしい」
 俺は自分に言い聞かせるようにつぶやくと、安堵のため息をついた。
「もう大丈夫だ」
 真緒が走って、俺の脇までやって来た。
「とにかく、この書物は俺が預かっておく」
 そう言って俺は、ジャコマの書をパタンと閉じた。


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