「檻〜ORI〜」 終章・心の檻(三)
作:JuJu



 沈黙のまま、時間が流れた。
「――決められないようね。無理もないけれど」
 男が言った。
「あたりまえでしょ? こんな体のままでいる事と、見知らぬ人の皮を取ってくる事、そのどちらかなんて、そんなもの選択が出来るわけがないじゃない」
「まあいいわ。わたしはもう行かなきゃ。いつまでも付き合ってあげられないのよ」
 男は背を向けて、扉に向かって歩きだした。歩きながら、わたしに話しかける。
「いつでもこの部屋から出られるように、外に通じる扉の鍵はすべて開けておいてあげる。気の済むまでここで悩んでいなさい。ゼリーは渡しておくから、交換する気があるのならば、明日この場所に皮を持って来て。
 断っておくけど、わたしの事を誰かに話せばどうなるか、分かっているわね? もちろんあなたさえ黙っていれば、わたしも何もしないわ」
 扉の前に着くと男は立ち止まり、見返って言った。
「それから、ひとつ忠告しておくわ。
 悩むのは勝手だけど、そのゼリーは一日しか効果が持たないの。明日になれば、それはただの液体になる。そうしたら、あなたは生涯その体よ?
 ――よく考える事ね」
 男は部屋から出ていった。

 男が部屋から出て行った後、わたしは手の中で静かに揺れるゼリーを見つめていた。
(皮を取ってくるなんて、そんな事は出来ない……。でも、このままでは、一生この体のまま……。わたしはどうしたらいいの……)
 やがて、いつまでもこうしていても仕方ないと思い直し、ゼリーなどをカバンに戻して、扉に向かって歩いた。
(わたしを解放するという男の言葉は本当だろうか?)
 疑問を抱きつつ、扉の前に立った。
「あっ」
 立っただけで、扉がひとりでに開いた。男の言葉は本当らしい。考えてみれば、男の目的は皮を取ってこさせることなのだから、わたしをこの部屋から解放して当然なのだろう。
 それでも、あの男にとらわれたまま、二度とこの部屋から出られないかも知れない、と思っていたわたしにとって、扉が開いた事はとても嬉しかった。
 扉の向こうには階段があった。あの階段を上れば、わたしは自由になれる。
「――家に帰れるんだ」
 あの階段の先には、どこまでも続く空がある。街の匂いを運んでいる風も吹いている。わたしや友人が住んでいる街があって、見も知らずの人も住んでいて、社会があって、太陽がある。こんな小さな四角い白い部屋じゃない、わたしが暮らす世界に戻れる。
 わたしは外の世界に向かって歩みだした。
 だが、その足はすぐに止まった。外の世界を考えているわずかな間だけ忘れる事の出来た、例の疼きが再び襲ってきたからだ。
 胸が、首筋が、アソコが、お尻の穴が、体中のすべての部分が、快感が欲しいと一斉に訴えている。
 そうだ。この部屋から解放されたからといって、この疼きからは逃れることは出来ないのだ。男の言うとおり、この体である限り、わたしは常に欲情し続けるのだ。
 そう思うと、階段を昇った後にあるであろう、温かい太陽も、涼やかな街の風も、とても気持ち良い物とは思えなくなった。
 むしろ、怖い。
 家でも、学校でも、遊んでいても、街を歩いていても、寝ている時も、常に欲情し発情している体。こんな体では、家に帰れない。恥ずかしくって友達にだって会えない。
「違う! この体はわたしの物じゃない。この感覚はわたしの物じゃない……。この体は偽物(にせもの)よ!」
 だが、男の言う通りにしなければ、わたしは生涯この体のままだ。この偽物の体が、本当の自分の体になるのだ。
「どうしてこんな事になっちゃったんだろう?」
 そう考えると、脳裏に男の顔が浮かんだ。
『すべて、わたしの考えた計画のためよ』
 男の言葉が思い出された。思わず、ゼリーが入っているカバンを握っている手がこわばる。
 そうだ。
「わたしは何もしていない」
 真実を確かめるように、つぶやく。
 わたしは偶然にあの男の計画に巻き込まれただけに過ぎない。それは写真の女性だって同じだ。わたしも写真の女性も、偶然男に魅入られた同じ犠牲者なのだ。同じ犠牲者なのに、写真の女性は平然と暮らせて、その代償として、わたしはこんな体で生涯を暮らすことになる。
 そんなのは嫌だ。写真の女性にはかわいそうだと思うけれど、わたしだって、こんな体のままなのは嫌だ。
 それに、写真の女性だって、その次の人の皮を取れば元にもどれるのだ。
 ここには時計は無いし、太陽も射し込まない。だから、何時間、何十時間、あの白い部屋に居たのかは分からない。だけど、緊張していたとはいえ、お腹もすいていないし、おトイレにも行っていない。体感的には長く感じたが、実際には僅かの間の出来事だったのだろう。
 写真の女性も、私のように、少しの間だけこの白い部屋で我慢して、次の人の皮をとってくれば救われるのだ。次の次の人だって、新しい皮を取ってくれば救われる。次の次の次の人だってそうだ。それは不幸の連鎖になるかも知れない。わたしだって、こんな不幸の連鎖を断ち切れたらいいと思う。でも、そのためにわたしの人生は捧げられない。断ち切りたいと思った人が、勝手にやればいいのだ。わたしは、正義のヒロインでも、正義の味方でもない。
 それに、わたしが皮を取るのをやめた所で、あの男は自分で皮を取りに行くと言っている。わたしには、写真の女性が皮を取られることを止めることは出来ないのだ。
 わたしは、全然悪くない。全部あの男が悪いのだ。ゼリーから皮を作れる期限は決まっている。今ここで決断をしなければ、生涯後悔することになる。
 わたしはすべての責任はあの男のせいだと決め込み、それを自分に言い聞かせるように頷いた。その時、ニヤニヤと笑っているあの男の顔が脳裏に浮かんだ。わたしが苦悩の末に導き出した結論も、きっとあの男の計画通りに違いない。そう感じた。
 そうだ。男に魅入られた時から、すべては仕組まれていたのだ。白い部屋に閉じこめられた時から、わたしはあの男の作った……『檻』に入れられていたのだ。
 最初は、空間を束縛する白い部屋の檻。次に、体を束縛する皮の檻。最後に、わたしの心を束縛する檻。気が付かない間に、空間・体・心と、檻は少しずつ狭まってゆき、気が付いたときには、わたしのすべてを締め付けていたのだ。
(――そして、この檻から抜け出す方法はただ一つ)
 わたしは扉をくぐって、白い部屋を後にした。

(了)